運命の女神が与えたもの

モハメド・アリの敗北は世界に衝撃を与えた。

それは二つの意味を持っていた。一つは、アメリカの体制に反逆を試みた男が現実の前に敗れ去った事実だ。不当に王座を剥奪され、多くの金と輝く時間を奪われた男に、運命の女神は褒美を与える代わりに、敗北という屈辱を与えた。現実世界はおとぎ話のような結末は用意しなかったのだ。

もう一つは、不世出の天才ボクサーも、ただの人であったということを見せたことだ。敗北により、それまで彼が纏っていた「不可能を可能にする」神秘的なオーラは消え失せた。どんなに素晴らしいアスリートにも訪れる「衰えの時」から、アリもまた逃れられないということを多くのファンは見たのだ。

2人の観客がショック死した

試合会場のMSGでは、2人の観客が心臓発作で亡くなった。おそらく最終15ラウンドのアリのダウンの瞬間にショックを受けたものとみられている。全米のクローズド・サーキットの会場でも何人かがショック死をしたというニュースが伝えられている。ボクシングの試合で、複数の観客がショック死を起こすほどの試合など滅多にあるものではない。アリの敗北はそれほどショッキングなものだったのだ。

控室に帰ったアリは敗北を受け入れた。試合前に酷評していたフレージャーの強さを認めた。

「やつはチャンピオンだ。KOされなくてよかった」

口を開くのもやっとの状態で喋る姿には、かつての「ルイヴィル・リップ」(ルイヴィルの大口叩き)の威勢はどこにもなかった。記者たちは、アリがこれで引退するかどうかはともかく、現役を続けたとしてもフレージャーに勝てる見込みはないだろうと考えた。

百田尚樹『地上最強の男 世界ヘビー級チャンピオン列伝』(新潮文庫)

一方、アリを打ち破って、名実ともに「真のチャンピオン」となったフレージャーの評価は一気に上がり、一躍「史上最強のヘビー級チャンピオン」候補となった。同時にアリを快く思わない人たちにとってのヒーローとなった。

しかしフレージャーはすぐに次の防衛戦を行なうことができなかった。アリとの激戦によって三週間もの入院を余儀なくされたからだ。それほどのダメージを受けながら、15ラウンドにわたってアリを打ち続けたフレージャーの執念も凄いが、アリに勝つためにはそこまでの犠牲を払わなければならなかったということだ。

余談だが、この試合を報じた日本の大手全国紙は、すべて「カシアス・クレイ」と書いていた。日本で「モハメド・アリ」と呼ばれるようになるのは、もう少し後のことである。