四時間余り、兵力に劣る三成たちは善戦したのではない。開戦とほぼ同時に秀秋たちの裏切りに遭い、短時間で壊滅したのだ。秀秋は逡巡することなく、開戦とほぼ同時に吉継、つまり西軍に攻撃を仕掛けたのである。

小早川秀秋の裏切りもウソ

秀秋の裏切りの場面が描かれる際、必ず登場するのが「問鉄砲」のエピソードだろう。

開戦から数時間経過しても内応しない秀秋に焦れた家康は、威嚇の鉄砲を撃ちかける。秀秋は家康の怒りに恐れおののき、裏切りを決意する。そして西軍に攻めかかったことで、流れは一気に東軍に傾いたという筋立てだ。

安藤優一郎『賊軍の将・家康 関ヶ原の知られざる真実』(日経ビジネス人文庫)

秀秋の逡巡、家康の督促、そして秀秋の裏切りの場面は、まさに手に汗を握るエピソードとなっており、関ヶ原の戦いにおけるクライマックスシーンとして、現在に至るまで人口に広く膾炙かいしゃしている。だが、実際のところは、こうした劇的な場面はなかった。

開戦とほぼ同時に秀秋が東軍に内応して西軍に攻めかかり、短時間で戦いは東軍の勝利に終わったからである。秀秋の裏切りは事実だが、その過程が家康に都合のよいように脚色されていた。別に家康から督促されることなく、秀秋は味方の西軍に攻めかかっている。

内応を督促したという家康からの「問鉄砲」についても、関ヶ原の戦い直後の史料には記載がない。百年以上も経過したはるか後年の江戸中期から幕末の軍記物に至って、「問鉄砲」の記載が登場してくる。創作に過ぎなかったのである。

「家康の決断」と「劇的な勝利」を描く必要があった

そうした創作が軍記物で施された理由とは、いったい何だったのか。

家康の果敢な決断により、戦局が一転して劇的な勝利がもたらされたことを強調・賛美したかったのだ。すべては家康の掌の上で動いていたことを後世に伝えたい目論見が秘められていた。

従来関ヶ原の戦いが語られる際には、参戦した武将たちは総じて家康の引き立て役を演じていたが、事実はまったく異なるのである(白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社)。

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