「すこぶる幼稚なる、未熟なる」からこそ支持される

歌劇とは申すものゝ、頗る幼稚なる、未熟なる、其理想の一部分すらも表現し得ない我少女の芸術を、東京の本舞台に於て、智識階級の観客の前に提供して御批評を願ふといふことは頗る大胆な行為であるかもしれません。清新にして趣味ある芸術であると広告めいたことは、時々申しますものゝ此未成品を丸出に、決して満足して御高覧に供して居る訳ではありません。

只だ、斯るものが時世の要求である。即ち、『必要品である』といふ条件を具備しなければ何物も存在し得ぬ道理の上に立て、斯る未成品の宝塚少女歌劇すらも、今や必要品として生存しつゝ発達しつゝある時代の要求に対して各位の御指導と御教示とによつて、益々是を向上せしめ、其進運に伴ふ芸術の効果を得たいといふのが目的であります。(小林一三「日本歌劇の第一歩」『歌劇』1918年8月)

幼稚で未熟な少女歌劇は、自分の理想の一部分さえも実現できていない「未成品」であり、そのことに満足しているわけではない。だが、そういう「未成品」が「時世の要求」となっており、「必要品」となっているのだと、小林一三は東京の知識層の観客たちに向けて主張した。かつて演出家のG・ローシーが日本に本格的なオペラを輸入しようとして失敗に終わったのに対して、宝塚の「未成品」が大いに繁盛していることに、小林は自信をみなぎらせていった。

「少女たちは女優ではなく、あくまでも生徒である」

日本の観客が求めているのは「未成品」であると直観した小林一三は、少女たちをあえて「生徒」と呼び、彼女らの公演は学校での学習成果の実演であることを強調していった。そもそも「ドレミ」でできた舶来の音楽は庶民の日常に密着したものというよりも「学校で習うもの」というのが、当時の社会通念でもあった。

そこで小林は、宝塚音楽歌劇学校の校長に就任して、勉強、服装、外出時のマナーなどあらゆる面で少女たちの学校生活を管理し、厳しい風紀を維持した。また、少女たちは、高等女学校の女学生になぞらえられ、そうすることで、従来の温泉芸者や役者とは異なる演技者のステータスを得ることができた。実際、宝塚少女歌劇では、俳優業に要求された鑑札が免除されていた。

「少女たちは職業的な演技者ではなくあくまでも生徒である」という建前は、従来の演技者、とりわけ「女優」との差別化を果たすうえでも重要だった。当時、女優という職業は、スキャンダラスなもの、性的なもの、卑しいものとして蔑まれることが多かった。たとえば、《カチューシャの唄》の女優・松井須磨子は既婚者である島村抱月と恋愛関係にあったためにバッシングに晒されていた。