宝塚歌劇団の舞台に立つ演者「タカラジェンヌ」は、伝統的に「生徒」と呼ばれる。大東文化大学の周東美材准教授は「創始者の小林一三は、少女たちを演技者ではなく、あくまでも未熟な生徒として売り出すことにこだわった。それがここまでの人気につながったのだろう」という――。

※本稿は、周東美材『「未熟さ」の系譜 宝塚からジャニーズまで』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

閉会式に登場した宝塚歌劇団(=2021年8月8日、東京・国立競技場)
写真=AFP/時事通信フォト
閉会式に登場した宝塚歌劇団(=2021年8月8日、東京・国立競技場)

阪急の開発事業の一環として誕生

宝塚少女歌劇は、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の開発事業の一環として創設された。まずはその設立の経緯から見ていこう。

1907(明治40)年、34歳の小林一三は、創立したばかりの箕面有馬電軌の専務取締役となり鉄道事業に参入していった。彼はそこから、鉄道経営を中心とした都市・住宅・観光地の開発事業を展開し、やがて阪急百貨店、宝塚歌劇、阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)、東宝などの各種メディア事業を連動させ、阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)を形成していくことになる。この若き経営者の最初の事業が、箕面有馬電軌の経営だったのである。

鉄道の開発計画は、大阪・梅田から箕面をつなぎ、さらには池田を経て宝塚、温泉地・有馬までをつなぐという遠大なものだった。だが、当時の箕面や宝塚の一帯は寒村そのもので、特別な名所や旧跡に恵まれているわけではなかった。山林や田畑のなかを突き進むという無謀な計画では乗客は見込めず、とても採算が合わないだろうと、大量の株が売れ残るありさまだった。

家族向けの観光地として宝塚エリアに目をつける

この鉄道にとって当面の課題は、沿線の観光地化を進めることによって、遊覧電車として利用客の心を掴み、経営に弾みをつけることだった。そのためにまず着手されたのが箕面地域の開発であり、なかでも1910(明治43)年に開園した箕面動物園は賑わいを集めた。この動物園の成功は、子どものいる家族をターゲットにした施設やイベントが沿線開発の鍵であることを示す前例となった(伊井春樹『小林一三は宝塚少女歌劇にどのような夢を託したのか』ミネルヴァ書房)。

小林一三は、箕面開発の余勢を駆りながら、家族向けの誘客策を徹底することで宝塚の観光地化を進めていくことになる。古くから宝塚は、温泉地として知られてはいたが、鉄道の乗客を呼び込むためには新たな観光資避暑源が必要だった。

そこで彼は1911(明治44)年5月、宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)を新設、翌年には洋館の娯楽場「パラダイス」を開業した。宝塚新温泉は、湯治客や温泉芸者が集まる旧来の温泉街とは異なり、瀟洒な建物、大理石の浴場、婦人化粧室、運動場、珍しい機械を導入したアミューズメント施設などを売りにしていた。

ファミリー向けの誘客策を徹底することで、宝塚は、親子連れの人気観光地として急成長し、沿線開発の資本が宝塚に集中していった。そして、次なる一手として小林が企画したのが、パラダイス劇場を利用した宝塚新温泉での「余興」だった。