1期生は小学校を出たばかりの少女16人
宝塚新温泉では、1913(大正2)年7月、温泉客のための「余興」として少女に唱歌や「歌劇」を披露させることが計画された。これにより小学校を出たばかりの少女など16名が第1期生として採用され、「宝塚唱歌隊」なる団体が発足した。
この唱歌隊は東京音楽学校を卒業した安藤弘・智恵子夫妻、高木和夫が歌とピアノの指導にあたり、同年11月にはお伽話を芝居に仕組んで演出した「お伽芝居」の創作・普及に尽力していた高尾楓蔭と久松一聲が、演劇・振付の指導者として追加招聘された。「歌劇」という未知なる西洋文化は、まずは既知の学校唱歌やお伽芝居という表現方法を経由して事業化されていったのである。現在の宝塚歌劇団の姿とは大きく異なっていることが想像できるだろう。
わらべうたや三味線音楽を西洋風にアレンジ
宝塚唱歌隊は1913(大正2)年12月、宝塚少女歌劇養成会と改称され、その第1回記念公演が開かれたのは、1914(大正3)年4月のことだった。このときの演目には、北村季晴作曲《ドンブラコ》と、本居長世作曲《歌遊びうかれ達磨》が選ばれた。いずれも1912(明治45)年に東京で初演されていたもので、日本のわらべうたや三味線音楽を西洋音楽の和声に調和させるなど、和洋折衷の歌劇を目指して試作された演目だった。
創設当初の宝塚少女歌劇には、まだ自前の歌劇を創作する準備が整っていなかった。そのため、すでに発表されていた本居長世らの演目を借用し、初舞台を迎えたのだという。
明治末期から昭和初期にかけて、こうした歌劇は「お伽歌劇」と呼ばれ、レコードや百貨店など各所で人気を博していた。このようにして宝塚ではお伽芝居をオペラ風に演じるという基本路線が定まり、「宝塚少女歌劇団と改名して旗上げ」することが決まったのだった。
“和洋折衷スタイル“はこの頃から確立されていた
初公演で《ドンブラコ》などの既成曲がひとまず上演された後、宝塚では舌切雀、中将姫、猿蟹合戦、花咲爺、瘤取物語、文福茶釜などのお伽話や歴史物語を素材にしたお伽歌劇が創作されていった。これらのお伽歌劇は、西洋音楽をベースとし、歌舞伎のような旧劇の長所を改良しながら融合させたもので、西洋直輸入のグランド・オペラとは異なる、和洋折衷的な性格が強調されていた。
小さな湯の町に花開いた宝塚少女歌劇は、大いに評判を集めた。その事業を拡大していくために、劇団はまず、三好和氣、原田潤、楳茂都陸平、坪内士行、岸田辰彌といった気鋭の芸術家を入団させていった。
次に、1919(大正8)年には宝塚音楽歌劇学校を創立し、文部省の認可を得て学校という枠組みを事業に組み込んでいった。学校という制度とイメージをモデルにした小林一三の事業は、箕面有馬電軌所有の豊中運動場から始まり、後に「国民的」なメディア・イベントとなる甲子園野球にも取り入れられていくことになる。