幼少期から「他人のために行動する」ことを求められる日本人

思い返してみると、われわれは幼少期から、常に「他人のための行動する」姿勢を求められてきた。学校では、班長やら生徒会役員やらゴミ係やら、望んでもいない役割を押し付けられることがあったし、日々の掃除では率先して雑巾がけすることを要求されたりもした。少しでもサボる生徒がいたら叱責の対象となった。大人になってからも、PTAの役員を押し付けられたりして、本当はイヤなのに「私は専業主婦だから仕方ない」「みんな我慢しているのだから、自分も我慢してやらなきゃ」と受け入れてしまう。会社でも、定時が来たら帰ればいいのに、周囲の目を気にして帰れない。

些末な例でいえば、5人でクルマに乗る際などにも「他人のために行動する」ことが求められたりする。いちばん身体の大きい人がゆったり座れる助手席につくのは合理的であり、わりとすぐに決まることが多い。そして始まるのが、後部座席の下座ともいえる中央席をめぐる自己犠牲合戦だ。

「私が真ん中に行きます!」
「いえいえ、私こそ真ん中に!」
「私、固いシートに座るほうが気持ちいいんです!」

……不毛なこと、このうえない。

酒席や会議、果てはエレベーターに乗る順番までも上座・下座にこだわったりするように、日本人はとにかく自分以外の人間を立てることこそが、人生においてもっとも重視すべき要点なのだ。

コロナの流行により急速に普及したオンライン会議も同様で、24人くらいが参加していても、中心的な役割を担う4人だけがカメラとマイクをオンにしていろいろと意見を言う一方、その他の20人はいずれもオフにして、気配を消していたりする。「私みたいな下っ端が喋ってはいけないのだ」「偉い人たちの会話を邪魔したら、あとで怒られたり、嫌味を言われたりするかもしれない」といった気持ちがあるのだろう。

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日本的な価値観に支配されているからコロナは終わらない

こうした日本的な価値観──「他人の目をなによりも気にかけ、他人に配慮する姿勢を常に周囲に示し続けることが重要」「自分は違和感をおぼえても、甘んじて受け入れる。そうすれば波風は立たない」といった意識に支配されている人間ばかりだから、日本のコロナ騒動は終わらないのだ。

日本よりも甚大な被害を受けた海外諸国がコロナ規制の解除や軽減に続々と向かうなか、岸田文雄首相は慎重姿勢をいまだ崩さない。今夏の参議院選挙に向けて支持率が下がるのを恐れているのだろう。「もうマスクは不要」どころか「その場の状況に応じて、外すかどうかは個々人で判断してもらっても構わない」程度のことすら言わないし、ワクチンの3回目接種は「皆さん、ぜひ打ちましょう」の大号令だ。

4回目接種についても「5月には準備が整う」と見通しを述べている。そうした岸田政権の動きを受けて、この4月にJNN系(TBS)が発表した世論調査では、政権支持率は前月から2ポイント上昇の59.1%を記録。これは、政権が発足した昨年10月とほぼ同水準の数字である。この流れに気をよくしたのか、最近は自民党議員からワクチン5回目接種の必要性を指摘する声も上がっている。