抑え込まれた差別衝動がコロナ騒動で顔をのぞかせる
しかしながら、人間には「差別をしたい」という根源的な要求があるのだろう。日本であれば被差別部落がまさにそうだし、五人組による相互監視であるとか、第2次世界大戦時の非国民認定なども、差別が公然とおこなわれてきたことを示す歴史的事実である。
戦後もハンセン病やてんかんの患者に対する差別があった。1980年代には「エイズは特殊な性志向を持つゲイ(当時の言い方は「ホモ」)がかかる病気」と世間で白眼視され、ゲイの人々は性的にふしだらで違法薬物の注射器を使いまわしている……といった偏見も根強かった。学校でも「○○菌」などと特定の子を理不尽に差別し、「バリアー!」や「えんがちょ!」などと集団から排除しようとする愚行も当たり前のようにおこなわれていた。
昨今、こうした差別的行為は「なにがあってもやってはいけないこと」と捉えられるようになり、「個人の尊厳は守られなければならない」と皆が肝に銘じるようにもなったと思う。素晴らしいことだ。
だが、新型コロナが流行するようになってから、日本人はまた「差別をしたくてたまらない……」という感情を強くしたように思えてならない。コロナに対して少数意見を述べる者を差別することで自らの優位性を確認し、多数派に身を置くことで「自分は常識人である」と安心するような風潮が強まっていないだろうか。
コロナ陽性者・マスク非着用者・ワクチン非接種者が差別のターゲット
先に挙げたような差別事案については「生まれついてのもの」「変えることはできないもの」という認識が周知されたこともあり、差別をするための材料にするのが難しくなっている。まぁ、ときどきは「LGBTQはただの性的嗜好」などと無配慮に発言し、炎上する人も出てくるが。
そうして、差別したい気持ちに飢えていた日本人のもとに出現したのが「コロナ陽性者」「マスク非着用者」「ワクチン非接種者」という3属性の人々だ。これら少数派の人々は、あくまで「自己判断」「自己責任」に基づき、そうした境遇を自ら積極的に選択したと世間的に捉えられている。それゆえ「批判されるようなことをしているオマエが悪い」と遠慮なく責められてしまう。
差別に飢えた人々は「ヤツらのコロナに関する属性は、生まれついてのものではないし、変えられないものでもない(陽性者にしても、防ぎようはあったはず)」「つまりヤツらは反社会的な存在であり、ただの自分勝手である。けしからん」と浅薄に思考し、「正義はわれにあり」と自負を強める。だから多数派は、100%の自信をみなぎらせて少数派を一斉攻撃できるのだ。たとえば小説家・医師の知念実希人氏は、マスクをしないでデモをする人々には海外のように放水車で攻撃してもいい、とまでツイートしている。