なぜ「大手証券会社」から「焼きそば屋」なのか
「焼きそば屋をはじめようと思ってます」
「焼きそばって、露店とかで売ってるあの焼きそばか?」
「はい。ぼくが目指すのは、ちょっと違いますけど……」
そういうと黒田は、退職の連絡で転職先の話をすることにためらいがあったのか、説明を止めた。
「俺を満足させられるようなものを作れるんだろうな?」
茶化したいい方をしたのは、驚きを隠したかったからだ。
証券会社の本社部門に入社するのは、決して簡単なことではない。有名大学出身者ばかりの競争を勝ち抜き、年収も実力次第では数年で1000万円を超えるだろう。そんな前途を捨て去ってまで、挑戦すべき仕事とは思えなかった。
「下北沢で店を開くので、ぜひ来てください。味には自信があります。一食700~800円ではじめようと思ってるんですけど、この値段ではなかなか味わえないクオリティです」
ぼくが関心を持った理由の一つに、下北沢という店の場所があった。家から近いだけでなく、若者の集まる街で、もしかしたら焼きそばという古くて新しいB級グルメには最適の場所かもしれないという考えが生じていた。
しかし何より気になったのは、大手の証券会社を辞めて焼きそば屋を開く理由だった。そんな選択をした同僚が皆無なのは、どう考えてもリスクに見合わないからだ。廃業率が高いうえに、たいして儲かるとも思えない。グルメ愛好家の思いつきに過ぎないのであれば、すぐにでもやめさせたかった。
飲食店ビジネスのむずかしさは、嫌というほどわかっていた。ぼくの父親はパン屋を開業していたが、伸びない売り上げと借り入れの返済にいつも苦労していた。「サラリーマンが一番楽な商売だよ」という口癖は、ぼくが転職や脱サラを考えるときのブレーキになっていた。
黒田を追いかけてみようと思ったのは、目先の収入の良さが自分のキャリアを狭めてしまうことへの不安が、ぼくのなかにもあったからだ。証券ビジネスは面白いが、これが社会人生活のゴールだろうか。黒田と同じように、次に進むべきステップがあったのではないか。
金融機関より焼きそば屋を選ぶ入社3年目の若者の価値基準が、社会人生活20年を超える自分の生き方を見直すきっかけになるかもしれないと思いはじめていた。
有休消化中に開店準備
ぼくは週末に、さっそく黒田が開店する予定の店舗に向かった。前日に連絡は入れてあった。下北沢の京王線ホームに近い出口から、歩いて10秒もかからない距離だ。コンビニの隣の店舗の二階で、店の前は朝から人通りが多かった。
ぼくは自転車で近くの酒屋に行くと、開店祝いにウイスキーを買った。下北沢の焼きそば屋にどんなお祝いがふさわしいのか見当もつかなかった。
「ビックリしたよ、いきなりだったから」
ぼくは店に入ると、挨拶をするなり今まで感じていたことを口にした。店はすでに内装が終わり、テーブルや椅子など備品の確保もひと通り完了しているようだった。
「すみません。自分では前から考えていたんですよ」
黒田は照れ臭そうに笑いながら、テーブルのうえに広げてあるチラシを片づけた。
がっしりした体格の黒田が立ち上がると、175センチの身長より大きく見える。上から下まで黒ずくめの服装に無精ひげを生やした表情は、すでにサラリーマンのものではなかった。正確にはまだ有休消化中のはずだが、翌月からの開店に向けた準備は着々と進んでいた。
チラシは開店案内用だ。店のカラーなのだろう。黒をベースにした紙に「東京焼き麺スタンド」と店名が書かれ、裏面に地図と焼きそばの写真が載っている。ぼくは荷物を置くと、黒田に向き合う形で座った。