大映倒産後、映画からテレビに進出する
1960年代後半、大映の経営は悪化し、マンネリ覚悟で、観客動員が見込めるシリーズものしか作らなくなっていく。
勝新は「悪名」「座頭市」に続いて、1965年には「兵隊やくざ」もヒットして、第三のシリーズとなった。
大映を勝新とともに支えた市川雷蔵は1969年に37歳で死んでしまった。
残された勝新は2年間、ひとりで大映を支えたが、1971年12月に大映は倒産した。
以後、勝新は1967年に設立していた勝プロダクションで映画を製作し、東宝が配給した。勝新は主演するだけでなく、プロデューサーであり、そして監督もするようになった。
その東宝との関係も1974年に終わり、以後はテレビ映画に活路を見い出した。
テレビ版『座頭市』で勝新は監督もした。その演出は、脚本を無視してその場で即興的に作っていくというもので、ストーリーはあってないようなものになっていった。
「勝新は天才だ」ということになる。
そのテレビ映画版『座頭市』も、100本作ると終わった。
巨匠・黒澤明『影武者』降板が運命の分かれ道
そこに、巨匠・黒澤明の新作『影武者』で主演しないかとのオファーが来て、勝新は快諾した。だが、この巨匠と大スターは撮影初日に決裂し、勝新は降板させられた。
ここから、この大スターの運命は狂っていく。
1980年秋、日本テレビからのオファーで刑事もの『警視-K』を勝プロで製作し、主演したが、実験的・前衛的過ぎて視聴率は低迷して打ち切られた。
1981年には勝プロが倒産してしまう。
1980年代の勝新太郎は誰もが知っている有名人だったが、映画俳優としては83年の『迷走地図』と、特別出演的な88年の『帝都物語』だけで終わろうとしていた。
三度目の座頭市ではひとり四役を担う
一方、1980年代なかばからのバブル景気で、儲けすぎた企業は、映画製作に資金を出すようになっていた。
勝新にも、都内にディスコやカフェバーといった最先端の店や焼肉屋を展開していた「三俱」という企業から、座頭市を撮らないかという話が来た。
勝新は「座頭市」の決定版を作る意欲で、製作・脚本・監督・主演のひとり四役を担うことにした。
1988年の初めに企画としてはスタートし、勝新はシナリオ制作に取り掛かっていた。しかし完成しない。
半年が過ぎると、配給する松竹から「これ以上待てない」と打ち切りを示唆してくるので、とりあえず形だけのシナリオを作り、三俱と松竹に見せ、見切り発車した。
撮りながら考えればいいという、失敗が目に見えている勝新流の撮り方をするしかない。
テレビの『座頭市』でその撮り方が通用したのは、大映京都撮影所時代の仲間の映像京都のスタッフを使えたからだったが、それから10年が過ぎていた。
今回は日活撮影所を使うことになり、これまで勝と組んだことのないスタッフとの仕事となった。