勘違いから給与面で雷蔵を超す
この撮影に入る前、勝新は社長の永田雅一に対し、出演料の値上げを求めた。
1954年の入社時、雷蔵は30万、勝新は3万だったが、1961年には、雷蔵が300万、勝新は250万円にまで上がっていた。
勝新と雷蔵の差はかなり縮まった。だが、勝新としてはシリーズものに出るのだから、雷蔵と同額にして欲しい。
「どれくらい欲しいんだ」と永田が言うと、「50万円上げてほしい」という意味で、指を開いて「5」と示した。
永田は「そんな大金、払えるか」と一蹴したので、勝新は撮影をボイコットした。
会社側はあわてて、「上げてやる」と言ってきたので、勝新は撮影に戻った。
撮影後、もらった額を見たら、500万円だった。勝新の「5」を永田は「50万プラス」ではなく、「500万円にしてくれ」と勘違いしたのだ。
500万になり雷蔵を抜いて、これで気分をよくしたところに、『座頭市物語』の企画が立ち上がった。
最大の代表作となる『座頭市物語』
『座頭市物語』の原作は子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の一篇で、1961年9月に単行本として刊行された。
『座頭市物語』については、「子母澤寛の随筆のなかに座頭市という侠客について数行書かれたものをもとにしたオリジナル脚本」、あるいは「ほんの数ページの実話をヒントにした脚本」「『ふところ手帖』のなかの短い随筆」などという説が、いまだに流布している。
しかし、子母澤寛の『座頭市物語』は、文庫版にして10ページのれっきとした短篇小説である。
子母澤寛は「侠客の飯岡助五郎を取材するため千葉県佐原市へ訪れた際に、飯岡のエピソードのひとつとして土地の古老から聞いた盲目の座頭の市の話を元に書いた」という趣旨のことを語っているが、『座頭市物語』の文中にはそういう経緯は記されてない。
大映は『座頭市物語』の映画化権を得た。
シナリオは1962年2月に完成し、その間に監督は三隅研次と決まった。撮影は3月初めに始まり、1カ月で完成して、4月18日に封切られた。
物語は――坊主頭で盲目のやくざが、下総飯岡の貸元助五郎の所へ草鞋を脱いだ。名は市という。
ツボ振りでも居合い抜きでもたいした腕だった。それを見込んだ助五郎は市を客分扱いとした。
市は釣りで、病身の浪人、平手造酒と知り合い、心を通わせた。しかし平手は助五郎と対立している笹川親分の客分だった。
やがて二人は友情をいだきながらも対決し、市が勝つ。しかし虚しい勝利だった。市は、彼を慕う娘おたねを避けて去っていく。
製作時点では「座頭市」はこれ一作の単発の企画だった。しかしヒットしたことで続編製作が決まる。
以後、1989年の『座頭市』まで、合計26本の劇場用映画が作られ、100本のテレビ映画も作られる、勝新の代表作となった。