「悪のヒーロー」役が転機となる

1954年のデビューから6年が過ぎても、勝新には代表作と呼べるものがなかった。大ヒット作もなく、評論家が絶賛するものもなかったのだ。

それでも、月一作のペースで主演していたのだから、まったく人気がないわけではなかったはずだ。

1960年9月1日、勝新の転機となる『不知火検校』(森一生監督)が公開された。

不知火検校ポスター
画像提供=KADOKAWA

主人公の「市」は盲目に生まれ、按摩として身を立てながら、泥棒、詐欺、強請、姦淫、殺人と、ありとあらゆる悪事を働き、盲人の最高位である「検校」になる、悪漢(ピカレスク)物語だ。

『不知火検校』は、悪人を主人公とするだけでも異質だが、最後に悪事が露呈しても主人公は何の反省もしない。そこが新しいと言えば、新しかった。

『不知火検校』は公開されると、大ヒットした。

勝新のイメージは「悪のヒーロー」に一新した。

大映の看板スターである長谷川一夫も市川雷蔵も二枚目役者だったので、徹底的な悪人は演じない。勝新もその路線を歩んでいたが、長谷川一夫には届かないし、雷蔵にも追いつけない。

そこで、二人が絶対にやらないような役をやってみたところ、はまったのだ。

しかし、当時の勝新は月に一本の新作を撮らなければならないので、『不知火検校』が封切られた頃には、明るく楽しいミュージカル風時代劇『元禄女大名』を撮り終えていたし、さらに次の映画も決まっていた。

すぐに悪のヒーローものに転じたわけではない。

初めてのシリーズ映画は「悪名」

『不知火検校』で新境地を開いたかと思えたが、それからの1年間、勝新は従来と同じように軽い時代劇に出続けていた。

ドドンパ酔虎伝ポスター
画像提供=KADOKAWA

そのなかには1961年6月公開の『ドドンパ酔虎伝』という安易な企画もあった。これを押し付けられた勝新も監督の田中徳三も気が進まず、撮影が終わるとやけ酒を飲んでいた。完成した映画は社内で酷評され、客足も鈍く、さんざんだった。

その次に、ようやく後世の人びとがイメージする「勝新」らしい作品、『悪名』と出会った。監督の田中にとっても、ようやく自分の味を活かせる題材との出会いだった。二人にとっての屈辱を晴らす機会がやってきたのだ。

『悪名』は今東光が『週刊朝日』に連載していた小説が原作で、それを読んだ勝新が映画になると思ったのが始まりとされている。

続・悪名ポスター
画像提供=KADOKAWA

昭和初期が舞台だ。時代劇と現代劇の中間の時代だが、この映画が撮られた時代からは、30年ほど前ということになる。勝新が演じる朝吉は河内の百姓の伜で、「肝っ玉に毛の生えた奴」と恐れられる乱暴者だ。

朝吉を演じるにあたり最大のネックとなったのが、言葉だった。朝吉は河内弁でしゃべるが、勝新は江戸っ子である。特訓して臨んだ。

『悪名』は9月30日に封切られ、興行成績がよかったので、会社はすぐに続編の製作を決めた。勝新初のシリーズものとなる。

『悪名』の続編『続・悪名』は3カ月後の12月に封切られた。