苦しみは“不足”を知らせるメッセンジャー
結論から言えば、すべての状況は「あなたのニーズが満たされない状態」としてまとめることができます。
他人に言うことを聞いて欲しい、友人の反応を知りたい、同僚を信頼し続けたい、物知りだと思われたい、がんばりを報われたい……。
表に現れた感情はそれぞれ違えど、何の不満もない状態でただネガティブな感情を味わい続ける人はいないでしょう。
根っこにはどれも「大事なものが失われた」や「必要なものが足りない」といった感覚があるはずです。すなわち、私たちの「苦しみ」は、あなたに“不足”を知らせるメッセンジャーとして機能しています。
このような機能は、人類進化のプロセスで形作られてきました。
個々の感情がどう進化したかについてはまだ議論がありますが、まずは「恐怖」や「喜び」のような個体の生存に役立つ感情が生まれたと考えられています。
「恐怖」は私たちに外敵から身を守る行動をうながし、「喜び」は食料や生殖の機会を逃さぬ気持ちを駆り立てるからです。
続いて、私たちの祖先が集団生活を始めると、脳内にはまた別の感情が宿りました。他人との生活はひとり暮らしよりも複雑さが増すため、できるだけ周囲の援助を勝ち取り、裏切りの可能性を減らさねばなりません。
そこで進化の圧力は、今度は「恥」「嫉妬」「愛情」といった新機能を私たちのなかにインストールしました。
これは「社会的感情」と呼ばれる発想で、私たちの感情には、次の機能があると考えられます。
・怒り=自分にとって重要な境界が破れたことを知らせる
・嫉妬=重要な資源を他人が持っていることを知らせる
・恐怖=すぐそばに危険が存在する可能性を知らせる
・不安=良くないものが近づいていることを知らせる
・悲しみ=大事なものが失われたことを知らせる
・恥=自己イメージが壊されたことを知らせる
もしこれらの感情がなかったら、あなたは身に迫る危険を察知できず、大事なものを奪われても取り戻そうとすらしないでしょう。
この意味でネガティブな感情は敵ではなく、私たちを守ろうと気を病む乳母のような存在といえます。それなのに、私たち人類だけが「苦しみ」をこじらせてしまう理由はどこにあるのでしょうか?
真の苦しみは“二の矢”が刺さるか否かで決まる
原始仏教の教典「雑阿含経」に、こんな話があります。
いまから2500年前、古代インド・マガダ国の竹林精舎にて、ゴータマ・ブッダが弟子たちに問題を出しました。
「一般の人も仏弟子も、同じ人間であることに変わりはない。それゆえに、仏弟子とて喜びを感じるし、ときには不快を感じ、憂いを覚えることもある。それでは、一般の人と仏弟子は何が違うのだろう?」
悟りを開いた人間といえば、何事にも心が動じないようなイメージがあります。しかし、実際には喜怒哀楽の感情を持つ点では常人と変わらず、本当に重要な違いは他にあると指摘したのです。
困惑して黙り込む弟子たちに、ゴータマ・ブッダは答えました。
「一般の人と仏弟子の違いとは、“二の矢”が刺さるか否かだ」
生物が生き抜く過程では、ある程度の苦しみは避けられません。捕食者の襲撃、天候不順による飢え、予期せぬ病気など、さまざまな苦境は誰にも等しく訪れます。あらゆる苦しみはランダムに発生し、いかなる知性でも予測は不可能でしょう。
これが“一の矢”です。
すべての生物は生存にともなう根本の苦難からは逃れられず、最初の苦しみだけは受け入れるしかありません。この絶対的な事実を、「雑阿含経」は一本目の矢が刺さった状態にたとえたのです。