公職追放が解けた五島が始めた意外な事業
つゆ晴れて見上げる窓の広さかな
二十六年八月六日、追放処分を解除された五島はこの一句を詠んだ。六十九歳であった。
早速、時事新報のインタビューに応じている。
「敗戦の結果として日本は四つの島に八千万の人口を抱えてやっていかねばならぬことになった。これではとてもやってゆけないなどという者が多いが、私はそうは思わないネ。/自由貿易が理想的に実行されるなら、領土などは問題ではない。その土地が誰のものか――なんていうことは問題じゃないではないか。考えてみたまえ。十九世紀から二十世紀初頭までは英国はあの小さな本国だけの領土で、商業によって世界を圧倒することが出来たではないか。国民の素質がよくてその国民が勤勉に努力しさえすれば領土など狭くても決して心配はない」(同前)
公職追放が解除された後、五島が最初に取り組んだのは映画だった。戦時中、娯楽に飢えていた国民大衆にとって映画は福音といってもいいほどの魅力があったのだ。
戦前から、五島は渋谷、宮益坂のニュース映画館を手始めに、五反田の工場跡地に劇場を建てるなど、都内に六つほど映画館をもっていたが、いずれも小規模なもので、すべて空襲で焼かれてしまった。
戦後すぐ、昭和二十一年一月、五島は東横百貨店の三階、四階に、映画館と小劇場を六つオープンさせた。客はひっきりなしに訪れ、連日満員という盛況だった。
「他人が作った物を上映しているだけではつまらない」
二十四年、五島は映画配給会社の東京映画配給(現東映)を設立した。いかにも五島らしい、発想だ。映画制作に乗り出すにあたって、五島は得意の手を使った。日活と松竹がもっていた大映の株を取得したのである。
「ラッパ」と呼ばれていた、業界の名物男、大映社長の永田雅一も、五島の軍門に降るしかなかった。太秦の大映第二撮影所が東急グループの東横映画に貸し出された。東横映画は毎月一本の映画を制作し、大映の配給ルートにのせた。大映は、一六ミリフィルムの地方興行権を東横映画に付与した。五島は、短期間に撮影所、配給ルート、興行権を握ったのである。
「パラマウント映画」ならぬ「ハラワント映画」と揶揄され
しかし興行は、五島の合理主義が通用する世界ではなかった。片岡千恵蔵の出演作は、かなりヒットしたにもかかわらず、配給価格を抑えられて大きな赤字を出す始末だった。東映は、半年もしないうちに行きづまった。負債総額は十一億にのぼった。
入場税は滞納され、給与は遅配、さらには街の金融機関から八千万円借り入れていた。不渡り寸前の手形が百二十三枚。一枚が不渡りになれば、即座に倒産という状況だ。
業界では東映を「パラマウント映画」をもじって「ハラワント映画」と呼んだ。
五島は、東急電鉄の専務の大川博を呼んだ。大川は中央大学法学部から鉄道院(鉄道省の前身)に入り、五島の知遇を得て、東急に入社し、五島の腹心になった人物である。
「この苦境を凌ぐには、君の手腕をもってしかない。東映の社長をやってくれ」
大川は固辞したが、五島は許さなかった。五島は撮影所のスタッフを前に演説した。
「このぐらいの赤字は、船一艘を沈めたと思えばたいしたことではない。みんなは一所懸命になって働いてくれ。この撮影所が天下一になるまでは、五島慶太、再びこの門をくぐらないであろう」(『東急外史』)
撮影所の海千山千の古強者が、どよめいた。マキノ光雄――「映画の父」として知られるマキノ省三の次男――が立った。
「いまは親会社からの借金で生きているが、やがてガッポリ稼いで、最後の借金を返す時には、私が使者に立つ。いまに二頭立ての馬車で金を東急本社に届けてやる」(同前)
五島は住友銀行に融資を申し込んだ。初めて息子の昇を交渉の場に帯同した。住友銀行頭取、鈴木剛は、昇の顔を見ながら言った。
「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますよ……」
住友銀行は、東映に対する個人保証を要求したのである。
五島昇は、こう述懐している。
「東映再建が失敗すれば当然、五島家は破産する。私は借金の大きさに身震いしたが、父はその話を淡々と聞くだけだった。全く動じない父の背中に、『事業家のオニ』を見た思いだった」(『私の履歴書 経済人26』)