三井銀行時代に財界の巨頭たちと出会う
明治二十六年、一三は、十等手代月給十三円という身分で、日本橋室町の三井銀行本店に勤務することになった。初めに配属されたのは、秘書課だった。
毎週一回、三井財閥の最高決定会議である仮評議会が、本店三階で開かれる。総本家の三井八郎右衛門、三井高保、中上川彦次郎、益田孝、三野村利助、渋沢栄一ら、お歴々が集まった。
一三の仕事は、その席で茶や弁当を配るくらいのものだったが、財界の巨頭たちの議論に、直接触れることができたのは、貴重な体験であった。
同年九月、一三は大阪支店に転属となった。兄貴格の高橋が呼んでくれたのである。転勤に際して秘書課長から「大阪に行くと必ず悪いことを覚える」と注意されたが、その通り、すぐに遊里に通い始めた。
「人力車の勇ましい音に驚いて、私は振返って見た。車上の人は艶色矯態、満艦飾の舞妓姿である。芝居の舞台と絵画とによって知っている活きた舞妓を初めて見たのである。(中略)もし、大阪から色街を取除けるものとせば、すなわち大阪マイナス花街、イクオール零である、と言い得るほど、花街の勢力は傍若無人であったのである」(『逸翁自叙伝』)
一三が二十一歳の八月、日清戦争が始まると、広島に大本営が置かれ、一三は大阪から広島への現金輸送に従事した。二十三歳の時、岩下清周が、大阪支店長として赴任してきた。岩下との出会いは、あらゆる意味で、一三にとっては巨きなものだった。
信州松代に生まれ、東京商法講習所に学んだ岩下は、母校で教鞭を執った後、明治十一年、三井物産に入社、アメリカ、フランスに在勤し、品川電灯会社を創立した功績で財界の信認を得て、三井銀行の支配人となった。
岩下の融資方針は大胆きわまるものであった。鉄商として名を馳せた、津田勝五郎に対して、たびたび巨額の当座貸し越しを見逃していた。また、これまで銀行が融資をしなかった、北浜の株式市場や堂島の米相場にも、資金を提供した。貸付係の一三は、いつもはらはらさせられた。
明治三十年、岩下は横浜支店に左遷された。藤田組への金融援助を三井銀行理事、中上川彦次郎に批判されたためである。岩下は、三井銀行を辞め、藤田伝三郎と北浜銀行を設立した。一三は、岩下の配下と目されており、当然、北浜銀行に行くものと見られていた。実際、同僚だった堂島出張所主任の小塚正一郎は、岩下の膝下についた。一三は、懊悩した。岩下は小塚を支配人に、一三を貸付課長にするつもりでいたらしい。
新しく大阪支店長として赴任した上柳清助からは、岩下の元に行くのか、三井に残るのか、態度をはっきりさせてほしいと要求されたが、一三は決められないでいた。結局、一三は貸付係から預金受付係に左遷されながらも、三井銀行に残った。
北浜銀行の設立者の最後
岩下は、北浜銀行の頭取に就任すると、財界に限らず、軍部の巨頭――山縣有朋、桂太郎、寺内正毅――とも深い関係を結び、衆議院議員となり、大阪を代表する政商となった。
北浜銀行は、大胆な融資で規模を拡大したが、大正三年、二回にわたって取り付けにあった末、岩下は背任横領に問われて有罪判決を受けた。
大阪一の料亭とうたわれた大和屋主人、阪口祐三郎は、大阪のために尽くしてくれた、岩下の名誉回復を企てた。
岩下の事業の中でも、生駒トンネルの開通は大事業で、当初、七十五万円の予算が三百万に膨らんだが、結局、為し遂おおせた。
「岩下さんという方は実に気の毒や。あんな人をほっとくのは、大阪人の恥や、自分のことは放っておいて、大阪に尽くした人やから、ぜひ、銅像を立ててあげたい。ひとつ協力してほしい」と、阪口は一三に持ちかけた。
一三は、趣旨には賛成したが、御遺族の意向が気がかりだった。
阪口が遺族にもちかけると、御厚意は嬉しいが……という返事だった。
債権者の問題などがあったのだろう。
阪口は、少女歌劇を最初に企画したのは、自分だと言っている。六十人くらい、芸者を抱えていたので、彼女たちを使って舞台をやったら、と考えていたら、一三に先手を打たれてしまったのだという。