シャクルトンも流氷に船を破壊され漂流

アムンゼンとスコットに続いてイギリスの探検家アーネスト・シャクルトンが南極大陸横断に挑戦した。けれどその過程で彼らの探検船「エンデュアランス号」は氷盤と氷山に囲まれ動きがとれなくなった。帆船エンデュアランスの船底は伝統的な尖った龍骨によって造船されていたので、船はまともに厚い氷盤の挟撃にさらされ、がっちり凍結された。

船は氷盤の圧力によって急速に破壊され、乗組員は全員船から氷盤の上に脱出することを命じられた。

「最後の1人が下船してから1時間も経たぬうちに、氷は船の側面を貫いた。まず、やりで刺すような一撃が側面に穴を開け、そこから氷の大きな塊が押し寄せるように入り込んだ」

この攻撃を受けたあとであろう。左舷に大きく傾いたエンデュアランス号の写真が『エンデュアランス号漂流』(アルフレッド・ランシング著、山本光伸訳、新潮社)に出ている。この時代の探検記はかなり詳細にその状態を写真に撮っているので事態はわかりやすく臨場感に満ちている。

シャクルトンは取り囲んだ氷盤を様々な策を講じて切りひらき、脱出しようと試みるが氷の海は非情である。やがて季節がもっと友好的に変わるまでは氷海からの脱出はかなわない、という厳しい現実を知ることになる。そればかりか氷海の圧力はエンデュアランス号をさらに圧縮し、舷側を突き破り、しだいに船と呼べるようなものから、船の古材の巨大なカタマリの物体に変えていった。

シャクルトンは自分らがもうその場にとどまっている意味を無くしてしまった、と結論づけ、幾度かの話し合いとそのための準備を綿密にして、帆船の残骸の地から脱出することを決める。全員の脱出である。

かれらの食料の基本もやはりアザラシだった。体力をつけるためにシャクルトンは夕食には全員のアザラシ肉のシチューのなかに脂肪の塊を入れさせた。食料節約のためにもこの味に慣れなければいけない、シチューの中の脂肪の塊は肝油のような匂いのするネバネバしたものだったという。

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シャクルトンは力のある3名の部下とともに偵察、先発隊としてソリで氷の海に出た。先発隊はシャベルやツルハシなどで氷盤の上の乱氷群を崩し、切り開き、あとの部隊が通りやすくする重要な仕事があった。そういう辛い仕事が連続するから部下に力と信念のある者を選んでいたのだった。

先発隊の次に犬ゾリのチームが1台あたり900ポンド(約408キログラム)の荷物を積んだソリをいて続き、最後に15名の男たちが行列を作って2隻のボートを乗せたソリを曳いた。

シャクルトンのこの奇妙な行列は“船のない亡者たちの漂流”であるのは間違いなかった。最初の頃の2週間はまったくアザラシを捕まえられなかった。その苦闘のありさまを本文からほぼそのままひく。

「肉の蓄えはまだ十分あったけれど、調理に使う脂肪分は残り僅かだった。停滞中に彼らは一度捨てた骨などについた脂肪分を少しでも回収しようとした。さらにアザラシのヒレ足を切り刻み、頭は皮をはいで取れる限りの脂肪分をこすりとったがそれでも入手できたのはごくわずかだったので、シャクルトンは温かい飲み物を1日1回、朝の粉ミルクだけに制限することに決めた。翌日、全員にチーズが1インチずつ配られ、それでチーズの配給はつきた。

隊員のなかには空腹を紛らわすため、気分が悪くなるまで煙草をふかす者もいた」

アデリーペンギンを1日で69羽しとめる

脂肪分がいよいよなくなるという2月17日の朝、アデリーペンギンの群れが目撃された。隊員らはそれぞれ殴打できる道具を持って襲い、1日がかりで69羽をしとめた。

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ペンギンの心臓、レバー、目玉、舌、爪先、そのほかわけのわからないものを煮込んだシチュー、それにコップ一杯の水が配られた。しかしその数日後、隊員らは何千、何万というペンギンに囲まれていた。人間を恐れないからそこで500羽ほど捕獲した。食料欠乏の危機にあった一行はホッとした。ペンギンのシチュー、ステーキ、レバーなどによって当面の飢餓の不安から解放されたのだ。

シャクルトンら4人の一行は氷盤をさらに進みやがて16カ月ぶりに黒々とした岩を目にした。このあたりの記述でいきなりドレーク海峡という記述が出てきたので筆者は目を見張った。以前読んでいるときには見過ごしていた。

「彼らが現在漂流している位置と、世界一の荒海と名高い「吠える海峡=ドレーク海峡」とのあいだには、わずかに2つ、南極大陸の歩哨ほしょうのような島、クラレンス島とエレファント島が、北方120マイル(約193キロ)の地点にあるだけだった。それより先はひたすら海が広がるばかりだった」

恐るべき長い時間、氷の中に閉ざされていたシャクルトンらは、ついに陸地が顔をだしている南極大陸の北端にあとほんの少し、というところに到達していたのだ。

しかし南極と南米大陸を隔てるドレーク海峡はパナマ運河ができる前まで死の海峡と呼ばれていた。太平洋と大西洋をつなぐ唯一の海峡を多くの船が越えようとしてこの吠える海峡の荒れ狂う海によって沈んでいったのだ。シャクルトンらにはまったくカケラほどもこの海峡を越えるすべはなかった。

チリ海軍から生きたアデリーペンギンをもらう

筆者は1983年に僥倖ぎょうこうともいえる幸運な成り行きをもってこの海峡をいくちょっとした海洋冒険の旅をした。

チリ海軍の砲艦に乗ってマゼラン海峡を南下し、まずケープホーンに行ったのだ。まったくの荒れた無人の岬と思っていたそこにはチリ海軍の一個小隊が駐留しているのを知って驚いた。軍艦に便乗はさせてくれたが航海の目的はいっさいおしえてくれなかった。

岬のてっぺんにはナンキョクブナによってカムフラージュされた高射砲が何基かあった。チリは南極のチリ側をピザの1ピースのように領土として主張しており、ケープホーンをその橋頭堡きょうとうほのひとつにしていたのだ。このとき駐留している若い兵士らは平凡な毎日に飽きていたのだろう。思いがけなく興奮し、初めて見る東洋人(筆者のこと)のために生きているアデリーペンギンを一羽プレゼントしてくれた。嬉しいような困ったようなプレゼントだった。

砲艦はそこからさらにドレーク海峡のただなかにある無骨な無人島、ディエゴ・ラミレス諸島まですさまじい荒波のなかを南下した。あと少しで南極だった。軍艦は大きな波に乗るとスクリューが海面から出て激しくカラ回りする不穏な音を聞かせていた。

その絶海の孤島には3人の兵士が駐留していた。そこも橋頭堡のひとつだったのだ。1年間の兵役期間と言っていた。筆者が乗せてもらった軍艦は、その孤島の新しい交代兵士を乗せていたということをその段階で初めて知った。

その当時はエンデュアランス号の苦難の漂流のことは何もしらなかったのだが、シャクルトンは救いの南米大陸まであと少し、と接近しながら到底その365日嵐の海を越えることができないやりきれないむなしさに煩悶はんもんしたのだろう。