※本稿は、椎名誠『漂流者は何を食べていたか』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
北極、南極をめざす冒険家たち
極地探検といえばアムンゼンとスコットの名がすぐに浮かぶ。アムンゼン隊は1911年12月に南極に到達し、スコット隊はそれに遅れること約1カ月後の1912年1月に同じ極点に到達した。スコットはアムンゼン隊の残したテントの中で、アムンゼンが自分に宛てた手紙を発見する。スコットの落胆はすさまじいものだったろう。その帰路にスコット隊は疲弊と食料不足によって全員死亡する。この対照的な展開は広く知られている。現代に置き換えれば米ソによる宇宙探検レースのように世界中の耳目を集めた大冒険だったのだろう。
1914年にはイギリスの探検家アーネスト・シャクルトン率いる探検隊が「エンデュアランス号」に乗り込んで南極点をめざしたが流氷にとじこめられて翌年遭難。漂流したが全員無事に生還している。
北極探検ではアムンゼンよりもスコットよりも早い1893年にナンセンを隊長とする探検隊が「フラム号」に乗って極点をめざしたが船がやはり流氷に阻まれて遭難。犬ゾリによって極点をめざした。
北極にしても南極にしてもその頃の探検は帆船によるもので、目的地に接近していくと夥しい流氷にはばまれ、多くはそれらの帆船が氷盤(巨大で厚い浮氷)や氷山などによって閉じ込められ、しだいに動きがとれなくなって遭難していく、という息苦しい経緯をたどっている。
当時の帆船が流氷にとざされるとすさまじい氷の圧力にとじこめられ、そこから脱出しないかぎり帆船が持ちこたえられる保証はなかった。
1879年、アメリカの北極探検船「ジャネット号」はウランゲル島の南東で氷にとらわれ、氷結した氷とともに2年間漂流し、最後は新シベリア島の北方で沈没してしまった。
流氷に強い設計の船で犬ゾリも用意
ナンセンの「フラム号」はこうした氷盤にとらわれる不幸を回避するために、四方から迫り来る氷の圧力に耐えられるように船の設計を考慮した。凍結した海によって動けなくなった帆船が氷盤の圧力をうけたとき、氷の圧力をやりすごすように船の底面から側面にかけてなだらかにし船底を強化している。
簡単に言うと丸みをおびた比較的タイラな船底にした。氷盤が迫ってきてもするりと氷盤の上に船ごとおしあげられるようにしたのだった。そして氷結期がすぎたらまたゆっくり〈無傷〉で海に降りていく、というしくみだった(『フラム号漂流記』フリッチョフ・ナンセン著、加納一郎訳、教育社)。
そうであってもひとたび周囲を氷に囲まれれば同じ場所で越冬するわけで、たえず前に進んでいこうとする探検隊にとって停滞の辛さにはかわりなかった。
ナンセンとその探検隊員は本船の船室で暗く(実際極地の冬は太陽がでないので極夜といわれる)長い1年間を過ごすのは辛かった。閉じ込められた探検家魂はバクハツ寸前になっており、ナンセンは船を降りて突撃隊のような組織をつくることにした。
その頃まだあまり実行されていなかった犬とソリを使った少数精鋭の偵察遠征隊を編成したのだ。
エスキモーから伝授されたように滑走面に海獣の皮を張りつけた6艘のカヤックと犬ゾリを準備した。この小部隊は隊長ナンセンのほか隊員1名。犬28頭。荷物は食料と犬の飼料とで重さ952キロになった。かくて思いつきの突撃隊はフラム号を出て北にむかった。かたちは突撃隊だったが、進んでいくうちにいろんなところに故障が出てきて氷盤の上を進む漂流隊のようになっていった。けれど食事は最初のうちは持ち運んでいる食料のなかから献立をつくる余裕があった。
チョコレート、パン、ペミカン、オートミールか小麦粉とバターと水のお粥、といったものだった。