テロ集団・タリバンと同様の蛮行をした明治の日本人

なかでも廃仏毀釈が激しかった地域は、水戸・佐渡島・松本・富山・伊勢・奈良・土佐・隠岐島・宮崎・鹿児島などである。

とくに鹿児島県では寺院と僧侶が、地域から完全に消えた。木造仏は薪にされ、金銅仏は溶かされ武器にされ、石仏は橋や建造物の建材にされた。ことごとく毀されため、鹿児島から流出した仏像はさほどは多くないとみられている。鹿児島では仏像が避難する余地すら、なかったのである。

新時代の到来によって、前時代の文化財をないがしろにしたのが明治初期の日本人であった。廃仏毀釈のピークは1870年代前半であり、それ以降はピタッとやみ、寺院は再建されていく。しかし、時すでに遅し。日本の貴重な文化財の多くが消えてしまった。

廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減した。哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに3倍はあっただろう、と指摘している。

2001(平成13)年、国際テロ組織タリバンがバーミヤンの磨崖まがい仏を爆破した事件は記憶に新しい。なんという畏れ知らずの行為か、と世界中の人々が憤慨した。だが、同様の蛮行を明治の日本人も行っていたのである。

政府が招いたお雇い外国人や外国人美術商が仏像の救出を模索

当時の日本人が文化財の破壊行為に手を染める中、仏像の救出を模索する人々がいた。政府が招いたお雇い外国人や外国人美術商たちである。

たとえば、大森貝塚を発見した米国の動物学者エドワード・モース、米国の哲学者で美術史家アーネスト・フェノロサ(や、その弟子の岡倉天心)、米国の医師で日本の仏教史にも精通していたウィリアム・スタージス・ビゲローらだ。

彼らは、信仰の対象でなくなった仏像が各地に散逸していく状況を憂いていた。そして、放置された仏像を保護し、買い集め、海外へと「逃した」のである。

それらは「東洋美術の殿堂」といわれる米国ボストン美術館のコレクションになった。その点数は10万点以上。岡倉天心は後にボストン美術館の初代東洋美術部長に就任している。

近年、国立博物館や各地の美術館などで仏像展が開催されると、展示される仏像の中に「海外の美術館所有」「新宗教団体所有」「個人蔵」の宝物が少なからず見つかる。

たとえば、2017(平成29)年秋、東京国立博物館での「特別展 運慶」。期間中の入場者数は60万人を数える大ヒット展示会となった。この特別展は奈良、興福寺の中金堂再建記念として開催されたもので、同寺から多数の仏像の出品があった。

鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書)

私も、作品をとくと拝見した。国宝「無著・世親像」の前に立った時、まるで命が宿っているようなリアリズムをもって迫るその姿に、私は感動を禁じ得なかった。

しかし、明治初期、無著・世親像は、あの美しき阿修羅像たちとともに、ゴミ同然の扱いで中金堂の隅に乱暴に捨て置かれていたのだ。阿修羅像の右腕はポッキリと折れていた(廃仏毀釈との因果関係が証明されているわけではないが)。多くの仏像が焚き火の薪になり、無著・世親像や阿修羅像すら、燃やされる可能性すらあった。

また、運慶展の展示品の中に、新宗教団体が所有する仏像もあった。廃仏毀釈時、多くの寺宝が売却され、一部がその新宗教団体に流れたのだ。