人権運動だから、環境保護だから、100%正しい目的のためにやっているのだから、という理屈を唱える人はいるだろう。実はこの考え方が一番危険だ。
人間社会には100%潔白で公明正大な人などというものは存在しないにもかかわらず、自分の側が正義だと思えば、自分の醜さや悪意に気づかずに、あるいはそれに向き合うことなく、相手に人差し指を突きつけることができるからだ。この快感はやめられない刺激を生む。
差異化を放棄することは知性を放棄すること
圧力をかけて対象となる会社や個人を貶めることに続く運動の目的は、相手に何らかのことを無理やり「表明させる」ことだ。これは文化大革命のときの「自己批判」の手法と同じだが、そこにおいて、人間が積み上げてきた文明や叡智は消し飛んでしまう。なぜか。
物事をすべて、白か黒か、正統か異端かに分けてしまえば、その他の存在は消え、差異化する努力や知的営みには何の意味もなくなってしまうからだ。
そして、差異化こそが知性に必要なものであり、目指すところでもある。差異化を放棄することは、知性を放棄することにほかならない。
いつの時代も、そうした運動はなくならないだろうから、別になくせ、と言っているわけでもない。単に、キャンセル・カルチャーが繰り広げる「運動」に、知的な価値は見いだせないというだけである。
表現の自由とは、すべての表現が尊ばれるということではない。
どこかに美しい蓮の花が咲くことを期待しながら、場を確保しておこうということにすぎないのだ。