わざわざ夜間保育に手をあげようという経営者はいない

ただ、保育現場にとって、子どもたちの保育をしながら同時並行で食事の準備をし、配膳し、食事の世話や後片づけをするのは負担が大きい。夜間保育園では食事が2回あるため、職員の負担は倍になる。

片野さんは「夜間保育の現場の負担を考えると1園あたりの補助額が少ない」と指摘した。

「都の姿勢は評価します。でも本気で夜間保育を増やすのであれば、もっと予算を増やさないと難しいでしょうね。そうでないと、昼間の保育士を確保するだけでも大変なのに、わざわざ夜間保育に手をあげようという経営者はいないと思いますよ」

「昼の子も夜の子も同じでないと」。片野さんはそんな思いで夜間保育に取り組んできた。そこには、33歳での自身の決断が影響している。

撮影=三宅玲子
19時ごろ、園児たちは、園内で風呂に入り、パジャマに着替えていた

「夜の子どもの預け先ってこんなに劣悪なのか」

福岡市北九州市出身の片野さんは、地元で保育士をしていた。幼なじみと結婚し、3人の子どもをもうけた。夫と八百屋を営んでいたが、経営がうまくいかず、夫は賭け事に走り、暴力を振るった。片野さんは、昼間は八百屋、夜中は焼肉屋のバイト、朝方はアーケード街の清掃と、仕事をかけ持ちして生活を支えた。

しばらくして夫とは別居。片野さんは働きに出ている間、両親に子どもたちを預けた。父は実直な鉄道マン、母は精神科病棟で働く看護師。近所の親のない子どもたちを世話するような面倒見のいい両親だった。

この頃、片野さんは歓楽街で忘れられない経験をしていた。

「お金に行き詰まって、黒崎のキャバレーに働きに行ったんです。子どものいる女の人もたくさん働いていて、店の中に託児所がありました。そこに息子たちを預けたんですが。おやつに出されたぶどうが少ししかなく、隣の皿に手を伸ばした次男の手を職員がパシッとたたくのを見てしまいました。うちは八百屋ですから、子どもたちは果物をがまんしたことがありません。しかもたたくなんて、夜の子どもの預け先ってこんなに劣悪なのかとショックでした」

撮影=三宅玲子
園内にはひな祭りの工作が飾ってあった

ある夜、短大時代の女友達と4人で食事をした。片野さんを心配した友達が気分転換に連れ出してくれたのだ。たまたま隣のテーブルで1人食事をしていた男性と、一言二言、言葉を交わした。聞けば八百屋の近くのクラブの厨房で働いているという。後日、2人で会い、恋に落ちた。東京の大学を中退して放浪中の26歳だった。片野さんは家族があることを隠して明るく振る舞っていたが、ある日、彼に問い詰められ、事情を打ち明けた。しかし、相手はひるまなかった。

「2人で東京に行こうと言われました。彼の夢と行動力に惹かれたんよね。それに、私は高校時代、陸上選手として好成績を出して東京の体育大学に進学したかった。東京への憧れがよみがえったところもあったのかもしれんね」

片野さんがいつの間にかふるさとなまりになっている。