新宿区長からは「水商売の子どもの園長か」と言われた

1991年には無認可と認可の間の「未認可」保育室として、東京都からの補助も受けられるようになった。

ところが、バブル崩壊の余波で会社が倒産。保育の質を守るために片野さんは認可夜間保育園を目指して運動を始めた。真夏に3カ月、駅前で職員や保護者、近隣の人たちがビラを配り、1万人の署名を東京都に提出。テレビや新聞、ラジオなどメディアにも訴えた。

エイビイシイ保育園の下駄箱。小さな靴が並んでいる
撮影=三宅玲子
エイビイシイ保育園の下駄箱。小さな靴が並んでいる

この頃、東京都は認証保育所の仕組みを開始する直前である。東京都の担当者からは、認可より基準が緩い認証を勧められたが、片野さんは「より公共性と持続性をより保つことができる」と認可を目指した。新宿区の担当者は、ベビーホテルとしての実績は認めていたものの、認可には難色を示した。さらに、当時の区長は夜間保育に否定的だった。

「父母会と一緒に区長に陳情に行ったとき、いかにも軽蔑したように『水商売の子どもの園長か』って言われたの。『あなたもそういうところに飲みに行ってるでしょう』と言い返した、そのやりとりは忘れられません」

最後は「新宿区にも夜間保育園をつくってもいいじゃないか」と福祉部長が理解し、前へ進むことになる。

「ひと口100万円で出資してくれないか」

一方、認可保育園になるためには社会福祉法人格の取得が条件となるが、それには自前の土地と建物を用意しなくてはならない。夫の会社が建てた自社ビルはあったものの、借金のためにつけられていた建物の担保1億5000万円をゼロにする必要があった。1億円は親戚など手を尽くして集めたが、残る5000万円が集められない。

職員会議では、寄付金を募ってはどうかという意見も出るなか、片野さんは父母会で親たちに窮状を打ち明け、提案をした。ひと口100万円で出資してくれないか、利息はつけられないが必ず返す、というものだ。

「大久保の同じ町内に暮らす園児の祖母がすぐに手を上げてくれたんです。歌舞伎町でホステスをしていたシングルの若いお母さんは、家を買うために貯めていたお金を出資してくれました」

こうして保護者や近隣の出資を集めたがあと1000万円というところで力尽き、最後は、保護者たちから保育料を2カ月分前借りして乗り切った。