3人の息子を残して、33歳の片野さんは東京へ

商売も家庭もうまくいかず、神経をすり減らす日々。年下のその人に真剣に口説かれ、新しい人生を夢みたのか。小3、5歳、2歳の息子たちを残して33歳の片野さんは駆け落ちした。

上京して半年、2人は別々に歌舞伎町のクラブの厨房で働き、180万円を貯めた。そして片野さんの保育士の資格を活かしたベビーホテルを始めた。

当時、新宿区にはベビーホテルが60カ所もあったという。場所柄、片野さんのところへ預けにくる女性は事情のある人ばかり。1人ひとりの話を聞き、それに合わせて預かるうちに、気づけば24時間保育をするようになっていた。

エイビイシイ保育園の園児たち
撮影=三宅玲子
エイビイシイ保育園の園児たち

「小さな子どもを連れて鹿児島から上京して、いますぐ働かないといけない女性もいた。クラブを何軒か経営しているやり手の女性もおった。みんな、子どもを育てながら必死で働いている人たち。つい、こちらも一生懸命になって引き受けてしまうんよね」

1年間は息子たちと連絡を取らないと彼に約束したため、電話も手紙を書くこともできない。息子たちへの言葉にならない思いが片野さんを保育に打ち込ませた。

自力で園舎を建てた

親が迎えに来られない子どもは自宅に連れ帰り添い寝をした。七五三には園児を連れて神社に詣る。2歳までに限定していたが、子どもたちが大きくなると、別の建物に3歳以上の部屋を借りて、2つの場所を運営するようになった。つくった給食をもう1つの部屋まで運び、兄弟が2つの部屋に別れて過ごしていれば、夜中に1人をもう1人のいる保育室まで抱いていく。隣には雀荘がある路地裏のビルの一室だったが、夏には表で水遊びをする姿が近隣のあたたかい眼差しを集めた。

息子たちとは1年後に再会した。泣きながら抱きついてきた上の子ども2人に対し、小さな末っ子は母を覚えていないのか、祖母の側から離れなかった。片野さんは子どもと離れるのがつらく北九州に戻りたかったが、母は「同じことを繰り返さんで」と東京に戻るよう諭した。父は、東京でベビーホテルを始めた娘を認め、子どもたちは引き受けるから心配するなと言葉をかけた。

片野さんは息子たちの野球の試合のたび、毎月のように東京から日帰りで応援に行き、息子たちは高校卒業と同時に東京に進学。片野さんの新しい家庭に加わった。夫婦の間に2人の娘と息子を授かり、片野さんは6人の母になった。

現在の小さな園舎ができたのは1990年。ベビーホテルを始めた翌年に彼が興した事業が軌道にのり自社ビルを建てた。その2、3階が片野さんのベビーホテルになった。60坪の土地は3億8000万円、建物は1億8000万円。補助金は受けていない。保護者からの保育料だけで認可保育園に負けない保育を目指すため経費はかさむ。保育園の運営資金が足りないと、会社の売上から補填していた。