さらに縄文時代前期の朝寝鼻貝塚(岡山県)からは稲が朽ちても残る結晶のようなプラントオパールが出土しており、すでに縄文前期における稲栽培の可能性を指摘する学者もいます。
【弥生時代】邪馬台国所在地論争に、終止符か
女王卑弥呼に率いられた邪馬台国がどこにあるかは、古代日本をめぐる一大ロマンでした。
その所在地については、京都大学の学者たちは畿内説を主張し、東京大学の学者たちは九州説をとなえて、論争にまで発展しました。しかし最近では、畿内説のほうが有力視されています。
奈良県桜井市にある纒向遺跡の発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見されているからです。纒向遺跡は、箸墓古墳など初期(3世紀半ば以降)の巨大な前方後円墳がいくつも集中していることから、ヤマト政権(初の全国政権)の発祥の地といわれていた場所です。
ですから、この地におそらく大きな集落あるいは都市のようなものがあり、それが邪馬台国で、そのまま発展してヤマト政権になったのではないかと考えられています。
もちろん、九州説も完全に否定されたわけではなく、纒向遺跡を上回るような遺跡が発見されれば、形勢が逆転する可能性は十分残ってはいます。
また、邪馬台国は1つの国ではなく、同国を中心とする30の小国の連合体でした。卑弥呼は鬼道をよく用いたとされており、その呪術的権威を背景に政治を行ったとみられています。なので、最近の教科書では卑弥呼が治めたのは「邪馬台国連合」と表記されるようになっています。
【飛鳥時代】聖徳太子は本当にいたのか
新しい史料や歴史研究の進展によって、偉人としての評価が大きく変わっている人物もいます。
その代表が聖徳太子です。聖徳太子は10人の言葉を同時に聞き分けるほど聡明で、叔母の推古天皇の摂政として政治をとり、天皇への忠誠と人々の和を説いて国内をまとめ、巨大国家・隋との対等外交を成功させた、古代日本のヒーローと教えられました。ところが、近年は、政治の中心人物ではないということになっているのです。
1999年、中部大学名誉教授の大山誠一氏が『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)の中で、推古朝に厩戸という名の皇子はいたが、彼は政治の中心になるような人ではなかった。聖徳太子は、後の権力者である藤原不比等などが編纂した『日本書紀』によって、創作された聖人である、などと明快に断じたのです。
『日本書紀』は『古事記』と並んで現存する最古の歴史書であり、聖徳太子の事績を最初に詳しく描いた根本史料です。ですから、あまりに“盛りすぎ”な場面を除いては、信用せざるをえなかったのです。
ところが最近では、いろいろな研究手法が発達するなどしたことで、新たな評価がなされるようになったのです。