ちなみに1185年を幕府成立の根拠とするのは、源頼朝が敵対する平氏を滅ぼし、さらに朝廷から自分の家来を諸国の守護、地頭などに任命する権利を獲得したことが1つの根拠になっています。

1192年は、単に源頼朝が征夷大将軍に任じられたという年です。ちなみに将軍のいる居館や陣営を幕府と呼びます。

教科書は、1185年が実質的な成立、1192年が形式的な成立と考えているのかもしれません。

ちなみに研究者の間で成立年に定説はありません。さらにいえば、何年に幕府ができたかにこだわってはいないのです。おおむねこの時期に成立したとすることでよしと考えているのです。

また、鎌倉時代の大事件としては、2度にわたる蒙古襲来が挙げられます。1274年の文永の役、1281年の弘安の役です。

戦いの様子を生き生きと描いたものが「蒙古襲来絵詞えことば」で、竹崎季長の騎馬武者姿と3人のモンゴル兵が描かれている場面は有名です。

蒙古襲来絵詞(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)。1人のモンゴル兵を貫く縦の線は、江戸時代に原紙を台紙に貼って修復した痕跡。貼り方がいい加減で上下が数センチほどずれているそう。だが線をまたいでいるモンゴル兵の体がまったくずれておらず、修復の後に描き込まれた可能性も。
蒙古襲来絵詞(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)。1人のモンゴル兵を貫く縦の線は、江戸時代に原紙を台紙に貼って修復した痕跡。貼り方がいい加減で上下が数センチほどずれているそう。だが線をまたいでいるモンゴル兵の体がまったくずれておらず、修復の後に描き込まれた可能性も。

ただ、このモンゴル兵は江戸時代に描きたされた可能性がとても高いと指摘する学者がいます。ポイントは1人のモンゴル兵を貫く縦の線です。これは、江戸時代に原紙を台紙に貼って修復した痕跡です。けっこう貼り方がいい加減で上下が数センチほどずれているそうです。ところが線をまたいでいるモンゴル兵の体がまったくずれていないため、修復の後に描き込まれたと主張しているのです。ただし、何のために描きたしたのか、正確な理由はわかっていません。

これと同様に2度の役のうち、弘安の役については、台風によってモンゴル軍が大損害を被り、そのために撤退したことがわかっています。これが後の「神風信仰」を生んでいくことになります。一方、1度目の文永の役も、昔は暴風雨で損害を受け撤退したといわれてきましたが、研究の進展で逆に明確な理由がわからなくなりました。このため、今の教科書では、威力偵察に来てすぐ戻った、軍内部の分裂で去った、暴風雨で去ったなど、文永の役でモンゴル軍が撤退した理由については、バラバラなのが現状です。

【江戸時代】犬将軍・綱吉、今は名将扱い

評価が下がっている聖徳太子とは対照的に、その評価が急上昇しているのが、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉です。

『<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4807161709/presidentjp-22" target="_blank">社会科 中学生の歴史</a>』(帝国書院)より。犬将軍のイメージが中年には強いかもしれないが、今では名君として扱われる。
社会科 中学生の歴史』(帝国書院)より。犬将軍のイメージが中年には強いかもしれないが、今では名君として扱われる。

綱吉といえば人間よりも犬猫を大切にする「生類憐みの令」を出し、庶民を苦しめた暗愚な将軍のイメージが刷り込まれているのではないでしょうか。

しかし、近年では戦国時代の遺風が残る殺伐とした社会を、儒教道徳や仏教の慈愛の精神を普及させることで変えていこうとしていたと評価されています。生類憐みの令もそうした政策の一環だったという見方が有力です。綱吉は武断政治から文治政治への転換を目指したのです。綱吉は聖堂学問所という大きな学校を造らせ、幕臣にそこで学ぶように通達しただけでなく、なんと自らも幕臣や大名たちに講義を始めました。その回数は生涯400回以上に及んだといわれています。