「中島飛行機」の技術力が落ちていくのを見かねた
だが、何度も繰り返しやる改修方法ではない。しかも、ボアアップしている間、格上のライバル、トヨタ、日産、ホンダは次々と新エンジンを開発し、モデルチェンジし、新車開発で富士重工に差をつけていく。
「エンジンは中島飛行機以来、うちが得意とする」と自負する技術者たちにとって、新しいエンジンは何があっても手にしたいもの、喉から手が出るほど欲しいものだった。
また、車体の性能向上も新エンジンの採用がなければ効果は少ない。業界で上を目指すのならば、どこかで決断しなければならないことだった。
「よし、やれ」
大きな投資が続いていることはむろんわかっていたが、田島はゴーサインを出した。車が好きで、車を研究していたからだけでなく、彼は現場を歩いていて、技術陣の力が落ちていくことを見かねたのだった。
新車レガシィの開発、4.3キロのテストコースも整備
1987年、日産とすでに提携していた富士重工はいすゞとも業務提携し、インディアナ州ラフィエット市のとうもろこし畑のなかに年産24万台の自動車工場を建設することにした。
新会社の名前はSIA(スバル・いすゞ・オートモーティブ・インク)。スバルの名前が先になっているのは出資比率が富士重工51パーセント、いすゞ49パーセントだったからだ。そして、のちのち、1パーセントでも多く出していたことが有利に働く。なお、投資額は約800億円。とても単独で出せるような金額ではなかった。
一方、生え抜き社員たちが期待した社長の田島はこの時期、アメリカでの工場建設以外にも次々と大きな投資を指示していた。
レガシィという新車の開発および新エンジンの開発、栃木県安蘇郡葛生町に全長4300メートルの本格的なテストコースを作ること、軽自動車の排気量が360cc、550ccから660ccに拡大されたことを踏まえて軽自動車用新エンジンの開発、そして、フラッグシップカーの開発企画だった。
いずれも前社長、佐々木定道の時代に検討が始まっていたものだったが、すべて「やれ」と決定したのは田島だった。
リーズナブルだが、発売のタイミングが悪かった
1980年代後半、日本はバブルへ向けて、徐々に景気がよくなっていく。富士重工だけでなく、日本企業は大きな投資計画を打ち上げ、同時に大学卒社員を大量採用した。当然、初任給も高くなる。富士重工もまた人員を増やしたために、コストも上がっていった。
1989年1月、今も続く同社の看板車種、レガシィがリリースされた。
それまでの車よりも大きな排気量を持ち、しかも、内容の割にはリーズナブルな価格の製品だったこともあり、日本市場、そして、アメリカ市場にも受け入れられていった。