レガシィを発売した年は296億円の大幅赤字に
1986年度の同社の売り上げは7157億円。営業利益は111億円。翌1987年度の売り上げは6634億円で、利益は26億円。
同じ時期、業界トップのトヨタのそれは6兆3048億円で営業利益は3293億円。同じく翌1987年度の売り上げは6兆249億円で、利益は2500億円。
プラザ合意以降の円高の影響で、自動車業界はどの社も苦しんだのだが、その後、トヨタ、日産などのトップ企業はバブル景気に合わせて高級車、スペシャルティカーを出して、売り上げ、利益を増やしていった。
一方、富士重工は1989年にレガシィが出るまでは1971年に初代が出たレオーネで戦わざるを得ず、販売が伸びていくわけもなかった。
国内ではレガシィの発売でやや業績は良くなったが、肝心のアメリカ市場が前述のようにふるわず、販売台数は急減した。レガシィを出した1989年、富士重工はついに296億円の大幅赤字となってしまう。
販売台数も前年度から8万8000台、減っている。その年の同社の国内生産台数は50万7000台。
トヨタのように四百数十万台の車を作っている会社ならばともかく、59万台が50万台になってしまうのはダメージとして大きい。社員が会社の存亡に危機を感じる数字と言えた。
アメリカ市場での成功を夢見ていたが…
しかし、それでも社長の田島は強気だった。
「この赤字は一過性のものと考えている。来期は回復し、黒字に転換できる。新車開発にも通常以上の投資をしており、その効果も出てくる」
アメリカでの工場建設、新エンジンの開発など、大きな投資はすぐに効果が出るわけではない。
しかも、誰もが予想しなかった円高の進展という環境の悪化もあった。運が悪いと言えば悪い。
しかし、どちらの決断も誰かがやらなければならないものだった。長い目で見ると、同社の車がアメリカマーケットで売れていく環境を整備したのは田島だったのである。
2010年以降、同社が成長するための骨格作りをした男だったが、田島は成長を見ていない。
彼は1995年に亡くなっている。生きている間、自分がやったことが成果をあげたのを見ることはなかったし、また正当な評価を受けることもなかったのである。
そして、田島の次に富士重工の社長を務めることになったのが、日産ディーゼル工業で社長をしていた川合勇という男だった。