※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
当時、日産と競合するような車種は開発できなかった
「それなら他社と一緒に工場をやるしかない」
1985年のプラザ合意によって急速な円高となり、各自動車メーカーは為替相場の影響を受けない現地生産に乗り出していった。
しかし、富士重工(現スバル)にとって、アメリカにひとつの自動車工場を建設するのは現実的ではなかった。
そこで冒頭のように決断したのが社長(1985年就任)の田島敏弘だった。
田島もまた興銀の副頭取から富士重工にやってきた。ただ、それまでの興銀出身者に比べると柔軟であり、かつアグレッシブなキャラクターを持っていた。
代々の興銀出身の経営者にとって富士重工は「二番目に大切な自動車会社」だった。いちばん大切なのは日本を代表する日産で、下位メーカーの富士重工は「つぶれないで、しかも、貸した金を返してくれればいい」会社だったのである。
それもあって、日産と正面から競合するような車種の開発はさせなかった。そのため、富士重工は軽自動車とレオーネでなんとか食べていくしかなかったのである。工場の建設のような大掛かりな投資は興銀出身者が許すはずもなかった。
ところが、田島は違った。当時、まだ中堅で、後に生え抜きで幹部になった人物は言う。
「田島さんは車が大好きで、革新論者でした。まったく銀行員とは思えないほど積極的な人で、僕ら生え抜きの人間には人気がありました。『スバルはこんなことではダメだ。もっと積極的にやれ』が口癖で、それまで僕らの会社は『興銀自動車部』と呼ばれたくらい、言いなりでしたが、田島さんから、がらっと変わった。いすゞと一緒にアメリカに工場を作ろうと主張したのは田島さんです」