小型車に体を押し込めて社長自ら営業

「なんといっても、その頃は日産と提携していました。日産と一緒にやるならともかく、提携をしていないいすゞと工場建設を始めたのです。

それだけじゃない。田島さんはこれまた金のかかる新エンジンの開発にゴーサインを出しました。加えて、栃木にテストコースを作ったのも田島さんです。アメリカにあった現地資本のSOA(スバル・オブ・アメリカ)を吸収合併(1990年)したのも田島さん。世界ラリー選手権に参戦したのも田島さん……」

田島敏弘社長(提供=SUBARU)

田島は自動車屋だった。興銀で副頭取までやっていたけれど、子どもの頃から自動車が好きだったこともあって、富士重工を下位メーカーから少なくともマツダ、三菱よりも上位に持っていきたかったのである。

彼は社長室のドアをあけ放ち、「誰でもオレのところに来い」といった態度だった。それまで社長が乗る専用車は日産のプレジデントを使っていたが、田島は怒った。

「社長が他社の車に乗るのはおかしなことだ」と一喝。

プレジデントよりも小さなレオーネを社長車にした。大企業の社長がレオーネのような小型車に乗って経団連ビルに入っていくのは当時、珍しいというか、場違いな行動とも思われたが、それでも田島にとってはそんなことは何でもなかったのである。

レオーネの小さな車体に体を押し込めて、「オレはこの車を作っている」と仲間の経営者に営業することもいとわなかった。

ただ、そういう様子を見ていた出身行の興銀幹部たちの目は冷ややかなものだった。

「田島はあそこまで頑張らなくともいいのに」

興銀にとってはつぶれては困るけれど、だからといって、富士重工が日産のシェアを食うような会社になるのもわずらわしい。地道に、それまで通りの経営をして、貸した金の利息と元本さえきちんと返してくれればそれでよかったのである。

念願の新エンジン開発にゴーサインが出た

田島が社長になってから会社は活性化した。社員にとってはアメリカ進出も嬉しかったし、栃木のテストコースも望んでいたものだった。

だが、当時の若手社員に聞くと、「ほんとにうれしかったのは新エンジンの開発」と答えた。しかも、そう答えたのはひとりではない。

当時、入社したばかりのある技術者は新エンジンの開発にゴーサインが出たことについて、こう証言した。

「レオーネは新車でしたけれど、エンジンはスバル1000をボアアップしたもの。10年以上も使ってきて、すでに限界でした。出力は出ないし、燃費も悪い。僕らはずっと『新しいエンジンを作りたい』と上層部に懇願してきたのです。そして、レオーネをフルモデルチェンジして、新車を出すならばこれはもうエンジンを変えるしかない、と。それでやっと決断してくださったのが田島社長でした」

ボアアップという改修の手法はエンジンのシリンダーボア(内径)を大きくしたり、シリンダー(気筒)の数を増やして出力を上げることだ。