スバル(SUBARU)は看板車「レガシィ」の発売当時、巨額の投資をつぎ込んだことから赤字が膨れ上がり、創業以来の危機を迎えていた。だがその後、売り上げを4年間で800億円増やし、V字回復に成功する。スバルにいったい何が起きたのか――。

※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

提供=SUBARU

次期社長に就任したのは日産OBだった

創業以来の赤字に震えたのは社内だけではなかった。

「貸した金はどうなるのか」ともっとも心配したのが興銀だった。自分のところから出した社長の田島が赤字にした以上、次は大株主の日産から人材を引っ張ってこなければならない。当時、富士重工の経営トップに生え抜きの人間はありえなかった。基本は興銀、それがダメだったら、提携先で大株主の日産出身者と決まっていた。

当時、興銀の頭取、中村金夫が動いた。

「こうなったら、日産から川合さんをもらってくるしかない」

中村は日産ディーゼル工業の社長だった川合勇のもとを訪れ「富士重工の社長になってくれ」と懇請したのである。当時、川合はすでに六八歳で、日産ディーゼルを退いたら、あとは隠居するつもりだった。

東大を出て日産に入社した川合は生産技術一筋で、追浜、栃木、九州、イギリスの工場建設に携わった。エンジニアとしてスタートしたのだが、途中からは日産の営業担当役員や経理担当もやった。生産現場のエキスパートで、しかも、営業と数字に強いというスーパーマンのような男だったのである。

実際、日産時代、上にいたワンマン社長の石原たかしは川合と久米豊のふたりを後継者として考えていたのだが、最終的に、石原は久米を選んだ。そのため八五年、日産自動車の専務から業績が悪化していたトラック会社、日産ディーゼルに出されたのである。しかし、川合は奮い立った。わずかな期間で同社を立て直し、黒字会社に変えた。興銀の中村は川合の手腕を噂に聞いていて、「再建屋」としての川合に富士重工を託したのである。