「“中島飛行機”に残った技術者はまさにスバルの原点だ」
川合が社長に就任した理由としては、興銀の頭取に頭を下げられたこともある。だが、彼自身も富士重工の前身、中島飛行機に思い入れがあった。それは学生時代の体験である。東京帝大航工学部空学科在学中に学徒動員された彼は後にプリンス自動車となる中島飛行機荻窪工場で飛行機エンジンの開発に携わり、戦後もそこで働いたことがあった。
川合は経済誌のインタビューでこう語っている。
「苦境にあって航空技術者たちの大半は離散してしまった。焼け野原のなかで毎日食べるのに精一杯で、自分の夢にこだわり続けられるような状況ではなかったんだね。僕は終戦翌年に日産に入ったんだけど、巨大企業集団の、それも民生分野に近い企業でさえ明日のこともわからないくらいだったしね。でも、その中であえて(中島飛行機系企業に)とどまった技術者たちがいた。まさにスバルの原点です」
中島飛行機の技術者を尊敬していたこともあり、川合は社長就任を了承する。田島は会長で残ったものの、実際に経営を指揮するのは川合と決まった。
続いて、こうも語っている。
「中島飛行機の技術者たちが戦後、ひどい状況にあっても耐え抜くことができたのは、技術力への自負があったからだと思う。戦争中に『誉』エンジンを作っていたとき、当時のエース級の技術者は言っていましたよ。『航空工学はもう欧米をキャッチアップしている。日本に足りなかったのは高分子化学や精密な加工ができる工作機械、電気工学など、裾野の分野だ。この戦争ではアメリカの凄さを見せつけられているが、自分たちだってやれないことはないんだ』」
川合は不思議な因縁を感じていたのだろうし、戦後の焼け野原から立ち直った富士重工を苦境のままにしておくことは忍びなかったのだろう。
徹底したのは「入るを量り出ずるを制す」
社長になってから彼はすぐ、社内に檄を飛ばした。
管理職以上を新宿スバルビルに近いホテルセンチュリーハイアットに集め、厳しい顔で現実を直視せよと机を叩いて言った。
「すべての判断基準は現状認識にある。富士重工がどういう状態にあるのか。ひとりひとりが何が事実で問題なのかを認識し合うところから適切な解決策が生まれます。表面だけを見ても、事実はつかめない。すべての面で現状認識の姿勢が必要だ」
川合の言う現状認識とは自動車製造の基本を徹底することだった。
「いい品をなるべく安く作る」
そのためには原価の管理と原価の低減が必要だ。彼は現場を歩き、原価管理を怠っていた管理職を大声で叱責した。