涙を流しながら悲壮な覚悟で訴えた

必死の活動を行った結果、この時期以降、富士重工の量産車は必ず利益が出る形で市場にリリースされていくようになった。それまでは要するに、「これだけ使わないと新技術の車はできないんだ」という開発陣の主張が通っていたのである。

だが、危機のなかにいると、人は態度を変えざるを得ない。開発陣の声は小さくなり、一方で、社内の他の部署からはコストの低減に関して多くの提案があった。提案が通り、設備投資、試験研究費、経費などにも適用されていった。社員の意識は徐々に変わり、「コストを抑えて利益を出す」ことを考える文化が生み出されていった。

一方、川合は足踏みせず、ますます改革を進めていく。九一年から本社の管理職をディーラーに出し、車を売らせた。それまでも一般社員がディーラーでセールスをしたことはあった。だが、川合は「管理職にも販売現場に出てもらう」と決めたのである。

悲壮な覚悟でスピーチをし、彼は管理職を送り出している。実際に涙を流しながら、彼は声を振り絞った。

「無理に出向をお願いするが、みなさんだけに汗水を流してもらうという考えはまったくありません。残った人たちも大変になるだろうし、役員も、ついては私も出向しなくてはという気持ちでいることを理解してほしい」

自動車業界では本社の部長、課長が販売店に行って、セールスを行うなんてことは前代未聞のことだった。業界他社の幹部は「考えられないし、うちでは絶対できない」と首を振った。もし、同業他社で同じことをしたならば、管理職は拒否するか、もしくはやめてしまっただろう。

「636億円の経常赤字」から4年でV字回復

川合がやったことは生産現場、販売、事務の人間に至るまでの意識改革である。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

「技術の中島飛行機、富士重工という意識ではいけない。お客さまを見て金を儲けることを考えろ」

彼が繰り返し教えたのはそういうことだった。

猛烈な改革が始まって四年が経ち、ようやく結果が出た。

九四年には年間販売台数が過去最高の三五万七六〇五台となる。売り上げは八三〇〇億円、営業利益が一三二億円で経常利益で二八億円。川合が死に物狂いで社内を督促した結果、ようやく黒字に転換することができた。なんといっても四年前の九〇年には経常利益がマイナス六三六億円だった会社だ(売り上げは七五〇〇億円)。

四年間で売り上げが八〇〇億円も増えるなんてことは、一種の奇跡だ。結局、企業の成長は経営者にかかっている。自分の任期の間、前年度より少しでも売り上げが伸びていればいいと思っているサラリーマン経営者では、立て直しなどできない。

他人にも自分にも厳しい川合が怒号を飛ばし、社内を引き締め、休みの日も朝から晩まで働かなければ会社は伸びていかない。ただし、川合は社内にも社外にも敵を作った。それが後に彼を不幸な立場に追い込んでいく。