美術館長「ただの観光イベントでは、表現も緩くなる」
観光の専門家を入れないで芸術イベントを作るとこうなるのだなと思う他に、通常の(特に関西の)観光イベントなら怒号が飛び交ってもおかしくないような話なので、美術ファンというのは我慢強いなと感心もする。
このようなことをつらつらと考えていたら、朝日新聞の大西若人編集委員の「芸術祭、観光イベント超えて 愛知と宮城、二つの問いかけ」という記事(2019年9月19日朝刊文化文芸欄)を見かけた。ここでは、ワタリウム美術館の和多利恵津子館長の「ただの観光イベントでは、表現も緩くなる」という発言が紹介されている。こうした発言をみると、観光イベントをアートフェスティバルより格下に見ているのではないかという懸念を持つ。
当初、あいちトリエンナーレの企画アドバイザーだった東浩紀は、著書『ゲンロン0 観光客の哲学』で、人間の知的営為における観光の持つ意味を示している。美術鑑賞と観光は重なり合う部分も多い上に、矛盾する活動でもない。
観光と芸術は車軸の両輪として地域を支えられるはず
私はダークツーリズムの成功例として「網走監獄」(北海道網走市)をよく紹介する。ここは「家族でコスプレと監獄食を楽しみに行ったら、北海道開拓時の強制労働と明治の行刑システムが分かった」という誘導が作られている。
娯楽と本質的理解は背反ではなく、シームレスに結合できる。このノウハウを高度に蓄積させた学問分野が観光学であり、今後の芸術祭においてはより広い国民の支持と芸術への理解を両立させるために、観光と芸術の協働はより重要になってくる。
折しも、演出家の平田オリザ氏を学長候補とする国際観光芸術専門職大学(仮称、兵庫県豊岡市)の構想が発表されたばかりであるが、観光と芸術は車軸の両輪として地域を支える存在になっていくのであろう。
観光という観点から見ると、オペレーションが未熟な上、ボランティアの訓練も不十分なので、おそらく企画が決定してから現場で実務を策定するまでの時間が足りなかったのではないかと拝察される。