客に予定の読めないような無理を強いるオペレーション

観客の誘導面では穴が多かった。

路地裏の会場への誘導では、街灯がつくまで、案内板を探すことも困難だった。(撮影=井出明)

例えば路地裏の会場への誘導では、夕方以降、街灯がつくまでの間は案内看板が全く見えなくなってしまい、訪問者は展示を探すのにかなり苦労することになる。

また、幸円ビルにおけるキュンチョメ「声枯れるまで」は、15名程度のキャパなのですぐに定員オーバーで席が埋まってしまう。満員になると整理券が配布されるのだが、逆に満員にならなければ整理券は出ない。

要するに「行ってみて、空いていればその場で見られるし、混んでいれば当日の整理券はもらえる。ただ、整理券はなくなることがあり、その場合はその日には見られない。翌日以降の予約はできない」という冗談のような行動の制約を受けることになる。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。キュンチョメ《声枯れるまで》2019

私は観光学者として数多くの地域イベントを視察しているが、複数会場を設定しているにもかかわらずに、客に予定の読めないような無理を強いるオペレーションには疑問が残った。作品自体はアイデンティティについて視聴者と一緒に再考するという非常に意義深い問題提起となっている。それゆえより多くの人の目に触れてほしいと思ったのだが、そもそもこの小さい会場で投影する必然性があったのかという思いも抱いた。

「ベビーカーは外に置く決まりになっている」

さらに、「四間道・円頓寺会場」では、無料ゾーンと有料ゾーンがパンフレットからも建物の外観からも全くわからない。チケットを出すと「不要です」と言われ、ドアが開いていたので入ろうとするとチケットの提示を求められる。中には建物と展示室がほぼ一直線であるのに2回チケット提示を求められるケースもあった。チケットチェックのオペレーションが顧客の立場で考えられていないのだ。「これではチケットをなくす人が出るのではないか」と懸念していたところ、知人がやはり紛失してしまい、泣く泣く買い直すことになった。

古民家の「伊藤家住宅」を使った会場では、何人かのボランティアに「ここはいつできたんですか?」と聞いたが、全員が「知りません」という答えだった。容易に想定される質問にすぐ答えられないのは、客としては不安になるし、また「イベントに思い入れはあるのか」という気持ちにもなる。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。津田道子《あなたは、その後彼らに会いに向こうに行っていたでしょう。》2019。江戸時代に建てられた伊藤家住宅内の二間続く座敷に展示されている。

さらに残念なシーンもあった。ベビーカーで来ていた若夫婦が「子どもがベビーカーで寝ているので交代で見学したい」と申し出たところ、スタッフが「ベビーカーは外に置く決まりになっているので、外で親御さんと一緒に待ってほしい」と対応していたのだ。結局、エントランスが空いていたので、他のスタッフが気を利かせて屋内に誘導していた。商店街でのイベントであるのに、ファミリーフレンドリーでない点は残念だった。