「何でも相談せよ」と言いつつ、実際は聞く耳を持たない
その結果、信長は部下に「何でも相談せよ」と言いつつ、実際は聞く耳を持たない裏表のある上司になってしまった。部下は上司の考えを忖度して動くしかありません。それができない部下は、切り捨てられるか、謀反を起こさざるをえないところまで追いつめられます。部下の言葉に耳を傾けない信長が裏切られたのは、自業自得です。
信長とは対照的に、部下の声に耳を傾けた武将は徳川家康です。有名なところでは、腹心の本多忠勝による助命嘆願。忠勝の娘婿にあたる真田信之の父・弟であった真田昌幸・信繁は関ヶ原の戦いで西軍にまわりましたが、忠勝は「お許しいただけなければ城を枕に謀反を起こす」と迫り、家康が根負けしたという逸話が残っています。
江戸時代に「神君家康」伝説が数多くつくられたため、この逸話の真偽についても判断が難しい面があります。ただ、関ヶ原の戦いの戦後処理で各方面から出された助命嘆願を家康がそれなりに認めていることは事実です。
家康はあえて口下手な人物を使者にした
家康は聞くばかりではありませんでした。関ヶ原の戦いの前、加藤清正ら七将が石田三成を襲撃する事件が起き、家康が仲裁に入りました。七将は三成の処刑を求めましたが、家康は聞き入れず、三成の隠居という落としどころで七将を納得させた。家康には、まわりの声を聞きつつ自分の考えも貫く、ほどよい柔軟性がありました。
家康が巧みだった点はほかにもあります。使者の選び方です。中世は、現代のように本人同士の口頭によるコミュニケーションではなく、書状によるコミュニケーションが主流でした。ただ、書状だけで細かいニュアンスを伝えるのは困難です。そこで書状を持たせる使者に、口頭で補足説明させるのが一般的でした。
普通、使者には弁舌のうまい人物が選ばれます。しかし、家康はあえて口下手な人物を使者にしたことがありました。関ヶ原の戦いの前、清須城に集結していた福島正則らは江戸城から動かない家康に不信感を持ち、家康に出陣を求めました。家康はそんな彼らを腰抜け扱いする書状を書き、口下手な使者に持たせました。要領の良い人物を使者にすると、空気を読んで表現を弱めてしまうからです。挑発的な内容をそのまま伝えさせることで、味方を奮起させました。彼らは家康を待たずに岐阜城を攻略しました。