膨大な団塊ジュニアが高齢者となる未来図
それこそ将来の若者は「100歳税」の導入を主張するかもしれない。「100歳まで生きてきたジジイとババアは、70歳あたりから30年間、何も生産することなく国に寄生してきた連中である。そんなに長生きしたいのなら、100歳以降は毎年、資産の10分の1に相当するお金を税金として納め続けろ」みたいな税だ。
現在、40代を迎えているわれわれ第二次ベビーブーム世代(団塊ジュニア)は、年間200万人以上生まれていたとあって、とにかく人数が多い。少子化が著しい、いまの子どもたちが成人し、社会で活躍するようになるころには、きっと厄介な存在になっているだろう。若者からすれば、自分がいくら稼ごうとも、社会保険や税金に多額のカネを吸い取られてしまうような状況に「老人がいるからオレの人生は不幸なんだ」といまいましく思う日が来るかもしれない。となれば「何が“長寿”だ!」と、むしろ長生きのことを“長害”と捉えるようになるかもしれない。
だったら、これからの時代は老人もできるだけ働いて、税金を納めればいいじゃないか──そう指摘する人もいるだろう。実際、政府は高齢者の雇用促進を今後の課題として掲げてもいる。しかし、いくら「人生100年時代」「生涯現役」を政治家や役人がうたいあげ、「一億総活躍社会」の実現を政府が掲げようと、老人ができることには限界がある。寄る年波は容赦なく、人を劣化させるものだ。
正直、現在44歳の私にしても、以前この連載で書いたように、もう体中にガタがきている。どれだけ働こうが元気でいられたのは、たぶん32歳くらいまでだろう。当時は10キロメートル走ろうが体はピンピンしていたし、睡眠時間が連日2~3時間でも一向にパフォーマンスは落ちなかった。生殖機能も実に優れていたと思う。どこに行くにしても徒歩か自転車であり、タクシーに乗ることなんてよほど急いでいるときだけの、年に数回しかないレア体験だった。出会った人は名刺を交換するだけですぐに名前を覚えられたし、仕事でやりたいことはガンガン提案して、実際に形にしていた。
さっさと死ぬ
それがいまや、食事をするたびに歯のあいだには食べ物が挟まり、文字を読むときはメガネを外さなければほんの一行ですらまともに読み進めることもできない。夜中に小便のために何度も起きたり、歯が抜けたりすることはまだないものの、年を取れば取るほど、かつては容易にできていたことが、どんどんできなくなっていくのを実感している。走ることもほぼない。32歳くらいまでは走ってばかりだったのに、人生100年だとしたらその2倍以上の68年は走らない人生だ。仕事でも、何か新しいことを提案する意欲は衰え、いまある業務を維持してこなすだけで手一杯である。
中高年向けの雑誌では「人生100年時代の資産防衛術」などを頻繁に特集するが、もはや社会保険は将来的に破綻することがほぼ見えている。年金の75歳受給開始案まで検討されているような時代にあって、「資産防衛」をするためのもっとも手っ取り早い方策はコレだと考える。
さっさと死ぬ。
私はまともに休みも取らず、1年中働き続ける人生をこの12年ほど送っているが、いいかげん疲れてきた。
「年齢を重ねれば重ねるほど人生が豊かになる」といったことを述べる人もいる。そう思える人は思えばいいし、何歳になろうとも向上心を失わずに生きていけばいい。
だが、私のような凡人かつネガティブ志向の人間は、決してそうは思えないのだ。20代前半のころのような気力、体力はもう戻らない。日々、ただ生きているだけで友人が増えたり、新たな出会いが次々と生まれたりした時代は追憶のかなたである。毎年、疎遠になる知り合いの累積人数が増え続けるだけだ。
恋愛系のドラマや漫画に接して素直に心を揺さぶられ、さらにはドラマや漫画の世界をトレースするかのごとく、出会って心を揺さぶられた女性と「自分たちは青春真っ盛り!」とばかりに恋愛をした。だが、すでに40歳を過ぎた人間がそんな昔の自分を懐かしんでいても「キモイ」と言われるだけである。