まもなく「人生100年時代」がやってくる。だが、それは無批判に歓迎すべきことなのだろうか。ネットニュース編集者の中川淳一郎氏は「100歳以上が100万人を超えるというのは度が過ぎている。生きることは尊いことだが、『100年も生きたくない』『さっさと死にたい』と考えることも、一方で認められてもよいのではないか」という――。

100年も生きたくない

「人生100年時代」が始まろうとしているのだという。国連の推計では、2050年には日本の100歳以上の人口は100万人を超えるというのだ。これを聞いた瞬間、うんざりした。“長寿”はめでたいものだが、度が過ぎているだろうよ、と。

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厚生労働省が2017年9月15日に発表した情報によると、住民基本台帳に基づく100歳以上の高齢者の総数は6万7824人。老人福祉法が制定された1963年には全国で153人しか存在せず、1981年に1000人を突破。1万人を超えたのは1998年のことだという。それから考えると、まさに激増である。

6万7824人という数は、国民のおよそ0.05%に相当する。このレベルであればまだ「めでたい」と感じられるかもしれない。しかし、自分も含めて周囲が100歳超だらけになったとしたら、はたしてどんな感想を抱くだろうか。

私は別に「高齢者差別」をしたいわけではない。ただ、個人的に「そんなに長く生きたいか?」と思うのだ。もちろん、生きることは尊いことであり、長寿の方々の人生を否定するつもりなど毛頭ない。とはいえ、個人の意志として「100年も生きたくない」「さっさと死にたい」と考えることも一方で認められてもよいのでは? と思うのである。

2010年の厚生労働省のデータによると、当時の男性の平均寿命は79.55歳で、女性は86.30歳。一方、「健康寿命」は男性70.42歳、女性73.62歳だった。ちなみに健康寿命とは、世界保健機構(WHO)の定義によれば「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」を指している。つまり男性は9.13年、女性は12.78年の「健康ではない人生」を送っているのである。そのなかには認知症を含む重い要介護状態にある人や、「胃ろう」「人工呼吸器」などを使った延命治療を受けている人も含まれていることだろう。

延命治療を受けたい人は受ければいいし、その判断は尊重する。だが、私は受けたくない。延命治療を施すかどうかの選択を迫られた段階で、多分「オレはほぼ天寿を全うした」と考え、延命治療を拒否することだろう。自然の摂理に反し、科学の力でなんとかしてまで生き永らえたいとは思えないのだ。

突然、自分の「健康寿命」が尽きたら

以前、生まれついて身体に障害を持つ人物と話した際、とても印象に残った言葉がある。

「私は生まれたときからこのカラダなので、そこまで絶望感はありません。事故などにより、突然、健常者から身体障害者になった人の絶望感は、また別のものだと思います」

この人物も生まれてから常に差別を受けたり、奇異の目で見られたりしてきた経験を持っている。にもかかわらず、こんな発言ができることに、私は深い敬意を抱いた。そして、自分自身に置き換えて、そうした状況を想像してみた。ある日突然、自分の「健康寿命」が終わり、要介護「5」になったり、延命措置を受けることになったりしたら、私はどう思うだろう。もしくは、もはや自分では何も判断できるような状況になく、身近な人が「せめて生きていてほしい」と延命治療を施す判断をしたら、周囲の人にどんな思いをさせてしまうのだろう。

仮に平均寿命が男性でも90歳を超え、健康寿命も延びたとしよう。だが、人間は突如として進化しないもの。それ以上に医療技術のほうが早く進歩する。となれば、平均寿命の延びよりも、健康寿命の延びは鈍化し、現在の「不健康寿命」である「男性9.13年」「女性12.78年」が「男性12.35年」「女性16.08年」のようなことになるかもしれない。

こうした数字は予想できるものではないが、少なくとも私は約10年ものあいだ、ろくに動けないまま、カネの心配をしつつ日々を送るような生活はしたくない。ネットで若者から「だから人数がやたらと多い団塊ジュニアのクソジジイ、クソババアなんかに対して医療費を厚くしなければよかったんだ」などと書かれるのかと思うと、絶望的な気持ちになる。