歴史学に限らず、研究者にはある種の慎重さや謙虚さが求められている、と私は考えています。自分が提唱する説というものは、あくまでも仮説であり、それが批判され修正されていく可能性を常に考えなければならない。それが研究者のとるべき態度である、と。

歴史において「一発逆転ホームラン」は原則的にはありえない

ところが陰謀論や疑似科学の主張者の多くは、対外的に「自分の説が絶対に正しい」と言ってしまう。自説が批判的に再検証されるべきだという意識が希薄で、批判されると「真実を隠蔽しようとしている」「学界は私を恐れている」と新しい陰謀論さえ付け加えたりする。

歴史学という学問は本来、先人の研究成果に一つひとつさらなる成果を積み重ねていく地味なものです。一つの新発見史料によって、これまでの通説が全てひっくり返るといった一発逆転ホームランは、原則的にはありません。「430年間、誰も明らかにできなかった真実を明らかにした」などと言う人がいますが、430年間の膨大な研究蓄積をたった1人で覆せると本当に思っているのでしょうか。

そもそも「通説」とは、いままで多くの批判にもまれながら、それでも耐えて生き残ってきたものです。それは一人の学者や素人の歴史愛好家によって、簡単にひっくり返るほど脆弱なものではないのです。私が学生たちに伝えたかったのは、そのように長い歴史の中で鍛えられた「通説」の偉大さを理解した上で「通説」に挑むことにこそ、歴史学の醍醐味があるということでした。それは「通説」を矮小化して、「論破」したつもりになる行為とは全く異なるものです。

未解明が山積みのまま一生を終えるのが歴史学者の運命

私自身、「長い長い研究史の中に自分の研究もあるんだ」という感覚が好きで、そこに歴史研究者としてのやりがいを抱いてきました。いままでの考え方と全く断絶した新しい独自のものを作るのではなく、歴史研究の長い連なりの中で一つひとつ新たな成果を積み重ねていくことに、歴史を学ぶ面白さを感じてきたのです。

私たち歴史学者は生涯をかけて歴史研究を進めますが、自分の知りたいことの全てを生きているうちに明らかにすることはできません。未解明のことが山積みのまま一生を終えるのが、歴史学者の運命です。

しかし、分からないことが積み残されたからといって、その人生は決して無駄にはならない。歴史の研究とは、そこに至るまでのプロセスや道筋にこそ意味がある。何百年も前に生きた人の知恵も借りながら、先人の研究に敬意を払い、新しい何かをその連なりの先に見いだしていく。そして、自分が築いたものは後続の研究者の踏み台になる。それこそが学問の醍醐味であるのだと私は思っています。

呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター 助教
1980年生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。『応仁の乱』(中公新書)は47万部突破のベストセラーとなった。ほかの著書に『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)がある。
(聞き手・構成=稲泉 連 撮影=プレジデントオンライン編集部)
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