学校の教科書は「時代」が変わると仕切り直しになってしまう。しかし現実の歴史は1本のタイムラインで今日までつながっている。江戸時代以降の400年を人口、経済、気温、身長の4つのデータから読み解く。第2回は「経済」について――。

※本稿は「プレジデント」(2018年2月12日号)の特集「仕事に役立つ『日本史』入門」の掲載記事を再編集したものです。

江戸幕府は慢性的に財政難だった

「江戸幕府は慢性的に財政難だった」というところから話を始めましょう。

江戸時代、庶民経済は活性化した。錦絵は「江戸八景 日本橋の晴嵐」(渓斎英泉作/国立国会図書館)

徳川家康が天下を取ったのは、織田・豊臣時代にあまりに強力な中央集権化が進められたのと、朝鮮出兵など戦争続きで各国が疲弊した反動で、有力諸侯が「もう領地や富の奪い合いは止め、現状維持でいこう」と“なあなあの体制”で結託したからでした。

その結果、徳川幕府は国土の4割弱の領地しか持てず、そこからの税収で全国の外交と防衛を担うことになりました。それでも、佐渡や伊豆の金山を押さえていたので、当初は余裕で財政が維持できたのです。掘れば掘るほど金が産出できるのは、今でいう金融緩和をしていたのと同じです。

しかし、金の埋蔵量は3代将軍・家光の頃には枯渇し、財政は次第に逼迫していきます。4代将軍・家綱は600万両を相続しますが「これを使い切ったら終わり」という大ピンチ。しかも江戸に「明暦の大火」(1657)が起こり、復興に多額の出費を強いられます。5代将軍・綱吉が就任したときには、幕府の資産は100万両を切っていたとも言われます。