江戸幕府は「通貨発行益」の“発明”で200年を乗り切った

破綻がいよいよ目前に迫り「いよいよもうダメだ」となったとき、奇跡の金融政策通が現れます――勘定奉行・荻原重秀。彼は、純度86%の慶長小判から純度57%の元禄小判を造る「元禄の改鋳」(1695)を行ったのです。

慶長小判2枚から元禄小判3枚が出来、かつ新旧小判の交換レートは1対1。貨幣量は1.5倍に増え、増加分は幕庫に入ります。幕府の財政は瞬く間に改善し、500万両もの黒字に転じました。いわゆる「通貨発行益」の“発明”により、江戸幕府はその後の200年を乗り切ったと言っても過言ではありません。

ところが、綱吉没後に重秀は6大将軍・家宣の側近、新井白石に失脚させられます。重秀の功績を妬む白石は7代将軍家継のとき、なんと元禄小判の金含有量を慶長小判の水準に戻す“逆鋳造”(正徳の改鋳・1714)を行ったのです。これは今でいう「金融引き締め」にほかなりません。市中に出回るお金が減り、幕府は再び財政難と景気低迷に見舞われました。

家康による天下統一を象徴する慶長小判は金15グラム+銀2.8グラムで94年間も使用される。荻原重秀は慶長小判2枚につき銀を17.3グラム加えて元禄小判3枚を造る画期的な「改鋳」を行い、財政を立て直した。