吉宗が金融緩和策をとったら東アジア覇権を奪っていた

「お金がないならお金を増やせばいいなどというのは、まったくもって賎しい策なり。懐事情が苦しいならまず無駄遣いを廃し、節約に励むべきである」

あれあれ、どこかで聞き覚えのある台詞ではないですか? 日本の経済史はここから現代に至るまで、景気低迷が続き「いよいよもうダメだ」となると金融緩和・積極財政派が現れて窮地を脱し、しかし本格回復しないうちに金融引き締め・緊縮財政派が復活して経済の活力を削ぐ愚策を繰り返すことになるのです。

さて、家継が早逝して8代“暴れん坊将軍”吉宗が就任すると、白石は真っ先に追放されるのですが、吉宗は経済失策の原因が金融引き締めにあるとは見抜けず、質素倹約(緊縮財政)という明後日の方向に励んでしまうのでした。

吉宗は20年もあの手この手で財政健全化を図るのですがうまくいかず、万策尽きて大岡忠相(大岡越前)の忠告を聞き入れて「元文の改鋳」(1736)を行います。金融緩和の効果は絶大でした。あっという間に財政が改善し、景気が好転したのです。

もし、吉宗が就任直後から金融緩和策をとっていれば、2年で経済再建を終えていたでしょう。そうすれば、当初英国よりも強大だった軍事力をもって、東アジアの覇権を奪えるくらいのことはできたはずなのです。

▼米価安で苦しむ武士に、富む庶民

ところで、江戸時代は国(幕府や諸藩)が苦しかったから庶民も飢えていたかというと、決してそうではありません。

幾度かの大飢饉は別として、庶民はどんどん豊かになっていました。

百姓は年貢を米で納めますが新田開拓や干鰯(肥料)の普及等で、稲作の負担は格段に減りました。空いた時間と労力で野菜、砂糖、芋、絹、紙、各地の特産品が作られるようになり、それを商人が全国各地に流通させ、異国との密貿易で財を成す者も出てきました。江戸時代は身分差別と鎖国制で庶民が虐げられてきたなどという、教科書の記述は嘘。庶民は自由な経済活動を謳歌していたのです。

逆に、武士は「石高制」で年貢や俸禄を米で受け取り、それを市場で売って現金を得ていました。生産量は増えているので米価は上昇しませんが、他の物品は庶民経済の活発化に伴って上昇したので、武士は相対的にどんどん貧しくなっていったのでした。

財政難のたびに商人から借り入れ、担保に年貢の徴収権を取られる藩もあとを絶たなくなりました。幕府がもしその気になっていたら、藩の借金の肩代わりと引き換えにその領地を接収して幕府の財政基盤を強化するとか、民間のパワーを取り込んで幕府主導の藩政改革を行うチャンスもあったのではないかと思います。