実際にはそんな都合のいいことは起こらない

呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)

概して陰謀論者はハッタリが上手い。一冊だけを読めば、「え! そうだったんだ」と思わず信じてしまうかもしれません。しかし、複数の陰謀説を俯瞰すれば、だんだんとそのパターンが見えてくる。「陰謀論というのは近づくと斬新だけれど、遠ざかってみるととても凡庸だ」と気付きます。

また、陰謀論は英雄史観とも相通じるところがあります。例えば坂本龍馬などが英雄として描かれるときにありがちなのは、彼の個人の力とビジョンの通りに、社会や時代が変わっていくというストーリーです。しかし、やはり実際にはそんな都合のいいことは起こらない。

ある人物に歴史を見通す鋭いビジョンがどれだけあっても、その通りに物事が運ぶわけではありません。必ず想定外の事態が起こるのが、私たちの生きる現実です。そこで迷ったり悩んだり間違えたりするのが人間であり、どんな英雄でも天才策士でもそれは変わらない。本来の当たり前の人間のあり方から目を背けるという意味では、英雄史観も陰謀論も変わらないと私は思います。

常識を覆す論には、知的興奮を伴う驚きがある

それから、もう一つ気を付けておかなければならないのは、陰謀論に引っかかるのは、歴史に対する知識が乏しいからではないことですね。

実際に歴史学の専門家が専門外の分野で陰謀論者になったり、陰謀論すれすれの説を語り始めたりする例は多く見られます。日本中世史を専攻する大学教員が、近代史学界で一蹴されている「坂本龍馬暗殺の黒幕は薩摩藩」というトンデモ説を支持するのは、その典型でしょう。さらに言えば高学歴で自分に教養があると思っている人ほど、よく引っかかると言えるかもしれない。それはパッと見たときに常識を覆す論には、知的興奮を伴う驚きがあるからでしょう。それが陰謀論の怖さです。

さて、実はこの『陰謀の日本中世史』のもとになったのは、私が立教大学で行った「歴史学への招待」という1、2年生向けの講義でした。

歴史学のイロハを知らない学生たちの講義のテーマに陰謀論を選んだのは、そこを入り口にすると歴史学とはどのような学問で、研究者とはどのように物事を考えていくか、という基本が伝えやすいからでした。