NHKラジオ講座の講師に抜擢された理由

【三宅】その後はオハイオの地元紙「シンシナティ・ポスト」に就職されます。おそらく、同時翻訳の成果でしょうが、杉田さんが英文タイプを打っていると、アメリカ人記者が寄って来て「おー!」と驚きながら見つめていたそうですね。

三宅義和・イーオン社長

【杉田】今はタイプライターも電動だし、ほとんどの記者はパソコンですから、もうかないませんが、当時は手動のタイプライターだったので、私より速くタイプを打つ人がいなかった。きっと「日本から来た日本人が、何でこんなに打てるんだ」とビックリしたのでしょう(笑)。

私はアメリカ人の同僚と2人で、経済面3ページを担当しました。シンシナティはP&Gの城下町でしたから、よく記者会見やインタビューに出かけたものです。自分で車を運転して取材に行くわけですが、そんなとき「俺もアメリカで新聞記者になれたな」という実感が湧いてきました。

ここでの経験が、後のキャリアにつながったと思っています。大学も経済学部でしたし、取材・編集の現場で実際の企業活動を目の当たりにし、「あらゆる現象はビジネスに通じている」と感じました。

【三宅】なるほど。「実践ビジネス英語」がビジネスマンに支持されているのは当然ですね。杉田さんは、ほどなくしてPRの世界に身を投じるのですが、記者として記事を書く側から記事を書いてもらう側になるわけです。コミュニケーションの取り方も変わると思うのですが。

【杉田】実際、私がいたジャーナリズム学部の卒業生は、半分が新聞や放送などのジャーナリズムに進み、残り半分が広告やPR関係に就職していました。

一方ではジャーナリストになり、片方ではPRマンになる。特にオハイオ州立大学の場合は、ジャーナリズム学部以外から卒業に必要な単位の3分の1を取ることになっていました。これはジャーナリストになるためには広い知識が求められるからですが、とてもいい経験でした。そんなこともあって、新聞社からPR会社に行っても、それほど大きな転身という感じはなかったのです。

【三宅】帰国後も、PRの分野でご活躍されている理由がわかりました。ところで、NHKのラジオ番組の講師になられたきっかけを教えてもらえますか。

【杉田】バーソン・マーステラというPR会社のニューヨーク本社に勤務し、85年からそこのクライアントである日本ゼネラルエレクトリック(GE)に取締役副社長として移籍したわけです。そこでは、人事と広報を担当しましたが、どちらもコミュニケーションは不可欠。日々の人間関係を通してスキルを磨きました。

その間、『戦略的ビジネス英会話』という本を書きました。私の2冊目の著作なのですが、まず「ビニェット」というミニドラマ的な会話シーンがあり、それに解説と単語・熟語の説明を加えるというものです。とにかく、クライアントが消費財や航空機のメーカーや保険会社、銀行と多種多様でした。彼らと一緒に仕事をしていたときの会話や職場での会話を臨場感があふれるように書いたつもりです。

そうしたらNHKの担当者から連絡があったのです。彼は、ビジネスマン向けの英会話番組を制作したいと考えていたようです。本屋に行って、書棚を見てみたら、私の本が目にとまり、一読されて「やりませんか」と声をかけてくれました。