問題なのは労働時間より中身

厚生労働省の「毎月勤労統計調査」をみると、正規雇用者の労働時間は90年代から現在にかけて2000時間前後で横ばいである。

非正規雇用者の割合が増える中、またITなどの活用が進む中で、正社員の労働時間が横ばいであることをどう捉えるか。あくまで推測ではあるが、正規と非正規との役割分担が進み、ITによる効率化が行われる過程で、正社員の仕事は「コア業務」へとシフトしている。つまり、労働時間は横ばいだが、その仕事の中身や責任は高度化していると考えられる。

「社畜」の道を突き進み、「課長」になったとしても、そこでは高度で複雑な仕事を強いられる。失敗はゆるされない。そして「働き方改革」に成功しても、今度は「トップとしての覚悟」を問われることになる。そうしたプレッシャーに耐えられず、不正をおかす経営者が後を絶たない――。いずれも日本の労働社会の矛盾がもたらした帰結だといえる。

「スペランカー課長」よ、立ち上がれ

「働き方改革」で最大の負荷を受けている管理職だろう。そんな人たちを、私は「スペランカー課長」と呼ぶことにした。「スペランカー」とは何か? 説明しよう。「スペランカー」とは、1985年に発売されたファミコンソフトである。冒険家スペランカーが洞窟を探検するアクションゲームなのだが、少し高いジャンプをしただけで、すぐに死んでしまう。小さなミスも許されず、難しさが半端ないゲームなのだ。

よく「クソゲー」の典型例として出されるが、私にいわせれば「クソゲー」ではなく、「ムリゲー」、あるいは「死にゲー」である。

小5の頃にこのゲームに出会った。当時は「スーパーマリオブラザーズ」が大流行し、誰もが最終ステージのクッパを倒すことを目指していたが、私は難易度の高いスペランカーに取り組んでいた。スペランカーでは、高橋名人に憧れて鍛えた16連射は通用しない。いわば昭和的な右肩上がりの体育会的イデオロギーが通用しない世界があったのだ。

人生の厳しさはスペランカーから学んだと言っても過言ではない。ちょうど父を亡くした頃でもあり、学校の担任の先生とも合わず人生に悩んでいた頃だった。だんだん自分とスペランカーが重なってきたのだ。この気持ちは小5の頃から変わっていない。今もまた、ちょっとした落下で死ぬのではないかと思いつつ、突然お化けが出て来ることに怯えつつ、前に進んでいる。

小生は43歳。会社で働く同世代は管理職も増えてきた。その多くは「スペランカー課長」として、難易度の高い「死にゲー」を強いられている。

「死にゲー」を無理強いするな

ゲームであれば、難易度の高さは問題にならない。スペランカーでは、1面をクリアしただけでも、感動をおぼえた。「意識高い系」の発言になるが、同じように、仕事にも困難を乗り越えるプロセスを楽しむという要素がある。それは残業を誘発する魔物でもある。

しかし、社会全体が「スペランカー化」し、「死にゲー」ばかりとなっていいのだろうか。そうではないはずだ。私たちは、ゲームのルールを変えること、さらにいえばゲームそのものを変えることに挑む必要があるはずだ。

「死にゲー」に挑む人がいてもいいだろう。だが、スペランカーやスーパーマリオだけがゲームではない。中には、「たけしの挑戦状」のようなさらなるムリゲーもあるし、「怒首領蜂」のように「死ぬがよい」とまでいわれるものもある。どんなゲームを選択するのかは自由だが、重要なのは立ち止まって考える余裕をもつことだ。

ちなみに、私は、人生は「テトリス」だと思っている。泥酔していても、毎回20万点までいける。うまくハマる居場所を探し続けて現在に至っている。

国家レベルで進む「働き方改革」が、逆に労働強化になってしまうことを懸念している。私たちの理想の働き方とは何なのか。風潮に流されず、自分事として考え、発信するべきだ。その選択肢は、「スペランカー」とは限らないはずだ。

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