胸の奥にある「規範」に照らしてみる

だから、「正しい」という言葉を使って議論をするときに心がけなければならないことは明らか。自分も相手もその胸の奥には何らかの規範があり、それに照らして「正しい」と言っている、ということをいつも意識することです。

たとえば、会社が利益拡大に伴って株主への配当を増やすと決めたとき、あなたは「正しい判断だ」、同僚は「正しくない」と主張し、対立したとしましょう。こうした場でおこなうべきは、それぞれの「規範」を表に出すことです。と言っても「規範」という語を使って正面から問いただす必要はありません。「私がこの判断を正しいと思うのは、会社は株主の利益を優先すべきだと思うからです」。そんな形で自分の「規範」を告げ、「あなたはなぜ正しくないと思うのか」と聞けば、同僚も「会社はまず社員の幸福に心を砕くべきだからだ」などと、その胸の奥にある「規範」を示してくれるでしょう。

そうなれば、議論が先に進みます。たとえば、同僚が「もちろん株主も大切だとは思う」、いっぽうあなたも「私も社員の幸福は大事だと思っている」などと、それまで言わずにいた認識を口にし、そこから両者が歩み寄る、という展開もありえます。少なくとも不毛な言い合いを回避し、互いへの理解を深めることができるのです。

ところで、ここまで述べてきたように、「正しい」という言葉には、「誰もが胸の奥の規範と対照してこの語を用いながら、それをほとんど意識していない」というおもしろい性質があるので、私たちはこれを「自分発見の道具」として使うことができます。

やり方は簡単です。ことわざや格言、あるいはテレビに出演しているタレントが口にした言葉などについて「うん、正しい」と感じたら、それは自分の中のどんな規範に「合っている」のか、考えてみるのです。思い当たった思想や倫理、道徳などは、あなたの行動のしかたを決めている重要な規範の一つであるはず。それをはっきり意識することは、まさに「己を知る」ことです。

また、ときどきこれを試みれば、「正しい」という思いが「胸の奥にある規範」との対照から生まれることがしっかり心に刻まれ、その認識は今後の人生の中で遭遇する大事な議論の場で、大きな力となるでしょう。

高橋こうじ
1961年、埼玉県生まれ。慶応義塾大学文学部を卒業後、ライターに。「言葉とは何か」をテーマにしたシナリオ「姉妹」で、第十回読売テレビゴールデンシナリオ賞優秀賞を受賞。2000年からは、言葉と会話をめぐる人間心理についての研究に力を注いでいる。2014年に上梓した『日本の大和言葉を美しく話す―こころが通じる和の表現』(東邦出版刊)がベストセラーに。
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