「ただ」は無料の「タダ」からきている

「正しい」は、「ただ」と「しい」の二語からできています。そして「しい」は、「やさしい」「くるしい」など多くの形容詞に共通することでわかるように、いわば形容詞を作るための土台。ですから「ただしい」の意味を担うのは「ただ」という言葉です。

「ただ」とは何か。そう聞かれたら、思い浮かぶのは、「ただ一人」「ただ見るだけ」といった形で使われる、「オンリー」という意味の「ただ」。あるいは「無料」という意味の「ただ」でしょう。そして、意外に思われるかもしれませんが、実は、この二つの「ただ」は同じ語源を持つ、兄弟の単語です。前述の本からその関係についての記述を引用します。

「ただ」という語のもともとの意味は、「そっくりそのままで、ほかの要素が入り込まない」ことです。確かに「ただ一人」とは「人が一人いて、ほかの人は入り込まない」状態ですね。いっぽう「無料」という意味にもなった理由については、店員と客のこんなやりとりを想像してください。店員が「この品をどうぞ」と差し出し、客は「おいくら?」。すると店員は「これをお渡しすることにお金という要素は入り込みません」という思いを表すために言うのです。「<ただ>受け取ってください」。そんな「ただ」の使い方から、「無料」という意味の名詞「ただ」が生まれました。(東邦出版「日本の言葉の由来を愛おしむ」)

そして、「ただしい」の「ただ」もこれなのです。つまり「そっくりそのままで、ほかの要素が入り込まない」ことです。では、何と比べて「そっくりそのまま」なのか、といえば、それは私たちがそれぞれの胸の奥に持っているさまざまなお手本、硬い言葉で言えば「規範」です。

私たちが人の行動や発言などを評価するときには、必ずその土台に何らかの基準があります。伝統的には、経験則、学問の書、宗教の教え、村のおきてといった「規範」と見比べます。その結果「そっくりそのままで、ほかのものが入り込んでいない」と思ったときに使う言葉、それが「正しい」なのです。(同書)

つまり、「正しい」とは「規範に合っている」ことです。そう言われればその通りだ。そう感じていらっしゃるのではありませんか。

あなたが、ある考えや行動について「○○は正しい」と思うとき、あなたは無意識に、その○○を胸の奥にある何らかの規範と照らし合わせて「合っている」とうなずいているわけです。

したがって厳密に言えば、それを主張する際には「○○は、××という規範に照らして正しい」と言うのが、理にかなった話し方。でも現実には、そんな言い方をする人はいません。それは、日ごろの会話の相手のほとんどは身近な人で、規範の多くを共有しており、いちいち「××の規範に照らして」と言わなくても、相手は同じ規範に照らし、同じ結論を出してくれるからです。

子ども時代の習慣も影響しています。私たちが十数年にわたって通う小、中、高等学校は、「教科書」の存在が象徴するように「規範」が定まっている学びの場。また、子どもはまだ複雑なことを理解できないので、何らかの社会的規範を身につけさせたい親や教師は、それがあたかも唯一絶対のものであるかのように伝えます。

私たちはそんな環境で成長するので、「会話の相手が自分と異なる規範を持っている可能性」に思いをいたす習慣は、なかなか育まれません。

そのせいで、何歳になっても、私たちの心は混乱します。特に、議論が熱を帯びたときなどは、「自分がこれほど正しいと感じることは絶対的に正しいはず」と思いがちで、そうなるとそれを受け入れない相手に腹が立ち、先に述べたような感情的な言い合いが始まるわけです。

以上が、「正しい」という言葉に関する私たちの状況です。