原因と結果を見極める「科学的理解」の限界
両者の特徴をまとめて図に表すと、以下のようになる。
図3は、紹介してきた2つの理解の仕方があることだけでなく、理解の中核には物語的理解があり、その表層部分に科学的理解があることを図式化している。
科学的理解は、現実に働く因果的な関係を仮想することで、快刀乱麻を断つごとく現実を切り、われわれに一つの現実の成り立ち(の可能性)を示す。その結論は、「商品鮮度問題が売り上げ不振を引き起こし、それが理由で、カルビーは鮮度管理概念を手に入れた」(>>石井淳蔵「売れない時代に必要なのは理系脳か文系脳か」http://president.jp/articles/-/3881)といったように、点と点を直線で結んだような理解に到達する。単純明快だ。人に伝えやすいし、わかりやすい。少ない概念で表される現実像であるので、「他の現実との比較」も容易だ。そういう点で、科学的理解は、現実社会の理解のための「出発点」としては便利だ。
だが、その科学的理解を解きほぐして、〈事前の見え〉ないしは現実の形成に関わった〈当事者の見え〉にもう一度差し戻すことで、あらためて見えてくるものがある。それは、曲線的な物語として紡ぎ出される理解である。〈現実の当事者の見え〉、それも〈事前の見え〉を背景にしているので、「自分なら、どうするか?」といったふうに、物語られている現実の成り立ちを、自分の立場に置き換えて考えることができる。それを通じて、物語の登場人物への共感も生まれる。それが、「腹に落ちた理解」や「揺るぎのない実践的指針」を与える。科学的理解のレベルでは、残念ながら、そこまでの深い理解が生まれることはない。