経営の現実を理解するのに必要な「鳥瞰図」と「虫瞰図」

もう一つの図は、到着点である〈t時点〉から、〈t-1時点〉を振り返った図だ。〈t時点〉に到達したその人には、〈t-1時点〉からの道は、どう見えるだろうか。

おそらく、選択肢がいろいろに分岐した道というより、〈t時点〉から〈t-1時点〉へと、一筋の道に見えることだろう。そこに至るまでに3つの選択局面があったことも、その局面ごとに複数の選択肢があったことも、隠れてしまう。

図2:〈事後の見え〉による道筋
図を拡大
図2:〈事後の見え〉による道筋

そして、たとえばその人がある人から、「どうですか。この〈t地点〉に到達されてのご感想は?」と質問されたとき、どう答えるだろうか。もしかすると、いろいろな選択があったことはすぐには脳裏に浮かばないままに、「当たり前のことを当たり前にやっただけです」と謙虚に答えてしまうかもしれない。「雨が降れば傘をさせばよい。それだけのことです」という言葉になって表れるかもしれない。これが〈事後の見え〉だ。そのつぶやきも吹き出しに入れて図2に示している。

そうなのだ。〈t時点〉に至って〈t-1時点〉を振り返ると、いわば、ほかに選択の余地がない必然の道に見えてしまう。〈t時点〉に至るまでにあったA、B、Cといった各局面、そしてそれぞれにおける選択肢の存在を思い返して、「来た道をあらためて顧みる」反省の気持ちや、「各局面で一度でも他の選択肢を選んでおれば、今ある地点にはいなかった」という想像の広がりは、〈事後の見え〉においては働きにくい。

ここに、〈事前の見え〉で述べた物語的理解の立場の意義があると考えられる。

物語的理解とは、(わかりやすく単純な)科学的理解を解きほぐし、「事前の立場」ないしは「当事者の立場」に差し戻そうとする理解の立場にほかならない。それに伴って、「世の中に当たり前の道はない」という理解、つまり「ほかにも、道はありえたはず」だし「今ある現実はたまたまのものでしかない」という想像力が前面に躍り出る。