科学的理解と物語的理解。どちらも、経営の現実を理解するうえで大切な理解の立場だ。両者の特徴は、あらためて整理すると以下の点になる。

(1)事後の理解と事前の理解

科学的理解の立場は、「物事が終わった後」の視点で見た理解の立場。逆に、物語的理解は「物事が始まる事前」の視点で見た立場。将来時点から見れば簡単にわかることが、その当事者にはわからない。

(2)外部者の立場に立った理解と当事者の立場に立った理解

現実を見る立ち位置が違う。科学的理解では、現実と距離を置いたところに位置して、いわば空を飛ぶ鳥のように現実を上から鳥瞰図的に眺める。現実と距離をとり、客観的な立場に立つことで、邪魔されず正確に現実を見ることができると考える。他方、物語的理解の場合は、現実の当事者と同じ立ち位置にある。いわば、虫の目で見た虫瞰図。鳥の目に見える道も、地表の虫には見通せない。

(3)直線的理解と曲線的理解

科学的理解では、原因と結果を見極め確定することが課題となる。それだけ、理解も直線的になる。たとえば、科学的理解では「王様が死に、それから王妃が心臓麻痺で死んだ」という直線的プロットに帰着する。他方、物語的理解では、「王様が死に、そして悲しみのあまり王妃が死んだ」という曲線的プロットを採用する(野家啓一「実証主義の興亡:科学哲学の視座と所見」、盛山和夫編著『現代社会学の理論と方法〈下〉』勁草書房、05年。野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫、05年)。

「悲しみのあまりは」は、あくまで一つの解釈であり、「自責の念から命を絶った」というプロットもまた可能である(同論文)。多様な理解曲線のうち、どれが妥当な説明かをめぐっては論争の余地があり、それに応じて(研究の世界で言うと)さまざまな「学派」が対立することになる。

(4)必然の論理と偶有の論理(「他の道、あるいは他の現実がありえたかも……」)

直線的理解では、「ほかでもありうる可能性(偶有性)」を見ない、いわば「必然の道」としての理解に導く。他方、曲線的理解では、「他の道も、また他の現実も、ありえたかも……」と、現実に潜在してしまったところの可能性を考慮に入れた理解となる。その点で、深い理解となる。「あそこでのあの判断(インサイト)が、結局のところ道を分けたのだ」といった経営の要諦を理解する力も生まれる(拙書『ビジネス・インサイト』岩波新書、09年)。

(5)抽象化・標準化と想像力・共感性

科学的理解は、現実を、高い抽象度のレベルで理解し、その理解レベルにおいて他の似た現実と比較する。つまり、モデル化志向だ。他方、物語的理解では、かけがえのない〈この現実〉が扱われる。高い抽象度で把握しようとする志向は乏しい。その現実は、他の現実と比較するすべのない現実である。だが、その現実についての理解は深い。「他のありえた可能性」に向けて想像力は羽ばたくからだ。同時に、この現実やこの現実が生まれた経緯に対して、当事者の立場に立つことで手触り感のある理解ができる。この現実ないしはこの現実を創り上げてきた人々を、共感しながら理解することができる。