※本稿は、野地秩嘉『東映の仁義なき戦い 吹けよ風、呼べよ嵐』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
高倉健が役者として男を上げた映画
鶴田浩二主演『人生劇場 飛車角』のヒットに続けと当時東映東京撮影所所長(のち社長)の岡田茂が東映京都撮影所で撮ったのが『日本侠客伝』だ。主演は高倉健。映画監督の降旗康男は高倉に2年遅れて東映に入社している。その後、高倉作品を何作も撮っている。降旗は『日本侠客伝』について、こう言っていた。
「健さんが役者として男を上げた映画が『日本侠客伝』だった。本来、主演は中村(萬屋)錦之助(介)さんだったけれど、本人が『やくざ映画には出ない』と断った。それで健さんが主役になったのだが、弟分の健さんが主役なら、自分(中村)が助けてやらなくてはいけないと助演で出ることにした。この錦之助さんの芝居がよかった。それにつられて健さんも覚悟の決まった芝居をしたために『日本侠客伝』はヒットしたし、健さんの芝居も変わった」
ヒットの後、高倉健は東京撮影所が製作した『昭和残侠伝』『網走番外地』のふたつのシリーズに主演する。任侠映画スターとしての始まりだった。
同時期、東京撮影所にニューフェイスで入った小林稔侍は専属俳優として撮影所に出勤していた。毎日、タイムカードを押して仕事をしていたのである。
小林の競争相手は大勢いた。
撮影所に「シーン8 仕出し(俳優)180人」と貼り紙がしてある。小林は貼り紙を見てから、助監督に「出してください」と申し出る。そして出演する。
現在なら大半は外部のプロダクションからエキストラを調達する。ところが、1960年代の東京撮影所では200人くらいの仕出し役者であればすべて東映専属の俳優でまかなうことができたのである。それくらい大勢の専属俳優、女優がいて、しかも、全員が主演スターになることを夢見て、頑張っていた。
ある新人俳優は少しでも目立たなきゃいけないと、群衆シーンの撮影ではいつもミカン箱の上に乗って目立とうとしていた。フィルムに映るためにライバルをかき分けて前に出る人間が集まっていたのが撮影所だった。


