1971年(昭和46年)、日本の食文化を大きく変える2つの出来事が起きた。雑誌『昭和40年男』創刊編集長の北村明広さんは「銀座にマクドナルド1号店が開店し、2カ月後にカップヌードルが発売した。アメリカナイズされた食べ方に抵抗を示す大人もいたが、若者たちには歓迎された」という――。(第2回/全3回)

※本稿は、北村明広『俺たちの昭和後期』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。

マクドナルドの屋外看板
写真=iStock.com/ermingut
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東京の一等地に上陸したマクドナルド

第1回で、昭和後期元年(昭和46年)は社会が“カラフル志向”へと変化したとした。これを邁進させた、また象徴的な2つのエポックがある。その後の社会を変えていく、これは事件レベルだ。

ひとつは、マクドナルドの開業だ。

日本マクドナルドの創業者、藤田 田は、明治以降の日本の中心であるとして、銀座での開業をターゲットとした。文化というのは、上から下へと転がっていくという持論があり、銀座でも特上の中心地、4丁目交差点の銀座三越1階に、日本1号店はオープンした。7月20日だった。

少し以前では考えられないほど、行儀の悪い食べ物である。眉をひそめる大人は多くいたようだが、若者によって新しい文化が定着するのは古今東西変わらない。

この5年前にビートルズが来日した時には、日本武道の聖地である場所、武道館でなんたることかと考える大人たちは多くいた。メディアも反対の声明を出したが断行され、若者の熱狂にはハンバーガー同様に、大人たちが入り込む余地はなかった。

アメリカ文化を受け入れる土台があった

これよりたったの5年で、アメリカ文化の侵食は急ピッチで進んだのだ。万博で最も人気を誇ったのはアメリカ館であり、これも万博がチェンジャーであると位置付けるゆえんである。

鬼畜とまで称したアメリカのファーストフードを、すんなりと受け入れるに至った。昭和後期元年のカラフル志向を象徴するような、黒船、いや赤船の襲来である。

少し余談を。今も残る地域はあるが、昭和後期世代の親たちは総じて小麦粉を「メリケン粉」と口にする。アメリカの粉だ。戦中に作りすぎた“メリケン粉”は、不味くて飲めたものではなかった脱脂粉乳と共に戦後輸入され、給食を通じて子供たちの口に入っていった。

教育の現場でも、アメリカ文化を受け入れていったジャパンだ。昭和後期に至った時の若者たちが、ハンバーガーに列を作る土台は十分過ぎるほどできていた。