※本稿は、永宮和『ホテルオークラに思いを託した男たち 大倉喜七郎と野田岩次郎未来につながる二人の約束』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
帝国ホテルに負けないようなホテルをつくればいい
異母弟の大倉雄二によれば、公職追放が解除されてしばらくしたころの(大倉)喜七郎は、たいそう不機嫌な毎日を送っていたらしい。
GHQによる処分から一線を退くしかなかったが、その期間が終われば関係した会社はまた温かく迎え入れてくれると期待していた。しかし実情はちがった。復帰の道を閉ざされた帝国ホテルだけでなく、どの会社も彼が会長などに復帰することには異を唱えた。
恩を仇で返される思いもどこかに抱きながら、なんとか一線に復帰しようと方策を練る毎日だった。多才な趣味人である喜七郎だが、やはりそうした顔も実業世界に活躍してこそ生きるものである。ただの趣味人ならば世間はそれほど関心を示さない。
だが、ついにその不機嫌な表情が緩むときがやってきた。新たなホテルを独自に創業するという構想の実現を、喜七郎はいよいよ決断したのだ。
――帝国ホテルへの復帰はもうあきらめた。それなら、帝国ホテルに負けないようなホテルをつくればいい。
「世界的に高く評価されるような国際迎賓ホテルを、この手で東京に建設するつもりだ」
「帝国ホテルに追いつき、超える」
親しい知人たちにそう熱く説く喜七郎の表情は、少しまえまでとちがって輝いていた。そしてそのときから彼の胸裏には「帝国ホテルに追いつき、超える」というスローガンが掲げられることになる。雄二は『男爵』のなかで、ホテルオークラ事業を決断したころの兄のようすについてこう回想している。
そのころ喜七郎は忙しそうだった。会うたびに声に張りが出、精力的にも見えてきた。七十六、七歳のはずである。彼が新しいホテルを建てる計画を持っているとは、夫人からも執事からも聞いていたし、他からも聞いていた。パンナムの後押しがあったり、こわれたりしていた時代である。
喜七郎が精悍に見えてきたのはそのせいだったと分かっていても、私はどこかにあぶなっかしいものを感じていた。むかしから趣味が仕事に先行し、旺盛な好奇心、知識欲のままに間口を広げ過ぎ、あわや支離滅裂というところで危うく踏み止まっているのが喜七郎の性格である。
いつものように自分の趣味性が先走り、事業性を顧みないことを弟は心配したのだ。70代後半で事業に失敗するようなことになれば、気力は急激に落ちるだろうし、積んできた功績にも瑕がつく。やはりそれは避けなければならない。